ロシア ロシア国立ノボシビルスク教育大学 交換留学(北浜 vol. 2)
ロシア留学体験談
名前 :北浜 玲奈(Rena Kitahama)
(北海道教育大学札幌分校 国際理解教育課程 日本語教育専攻4年)
留学の種類:大学間交換留学(交通費、生活費は自己負担。奨学金なし。授業料、寮費無料)
留学先
ロシア国立ノボシビルスク教育大学
*ロシア連邦
面積 :17,075,400km2
首都 :モスクワ
国家形態:連邦共和制
行政区分:89の行政単位
人口 :1億4700万人(人口密度:1km2あたり9人)
言語 :ロシア語(公用語)、その他100以上の言語
GDP :2,680米ドル
通貨 :1ルーブル=3.7円(2004.1.当時)
時差 :モスクワ…-6
期間
2003.9~2004.8
費用
交通費→行き約8万円(新千歳→新潟→ハバロフスク→ノボシビルスク)
帰り約5万円(ノボシビルスク→ソウル→成田→新千歳)
生活費→月約3~4万円
(多少変動あり。これで3色食べて娯楽も行けて、結構いい装飾品も本も辞書も変える。)
旅行費→約5万円
(モスクワ・サンクトペテルブルク2週間。シベリア鉄道の切符が高かった。)
その他諸々(冬装備代等)も含めた合計:約60万円
※旅行に行かなければかなり安くすむ。でも、今物価上昇中なので、生活費月5万くらいかかるかもね。
国の評価(5段階評価):ロシア連邦
物価 :☆☆☆☆ 安い!月に4~5万円あれば左うちわの生活。ただし、物によっては高いし、年々上昇中。東に行く程物価は下がるが、首都モスクワは世界一を東京と争うほどの高さ。
治安 :☆☆☆ ロシア全体の治安ははっきり言って1か0。が、ノボシビルス クはまぁまぁ安全。
国民性:☆☆☆☆☆これはまぁ、ひいき目もあるが、おおらかで世話好きな印象を受けた。
食 :☆☆☆☆☆これも好みによるが、魚以外は絶品。特に野菜が最高。
空気 :☆☆☆ 乾燥しているし、ホコリがすごい。乾燥肌の方は要注意!
気候:ノボシビルスクは内陸であるので、冬は-40度、夏は+40度、年間平均気温は0度という街である。雪解け時の春は道が大河となるため歩行は困難。冬の始まりは早く、11月には札幌の真冬なみの寒さになっている。
出国時の注意:預ける荷物の重さにはかなり厳しい。しかも、今はテロに敏感になっているため、おそらく機内持ち込みにもかなり敏感なはずである。重い荷物を持って出国する際には多少の賄賂を用意しておく必要がある。さらにパスポートコントロールが3回もある。入国はわりと簡単だが、出国はかなり面倒臭いことを頭に叩き込んでおいた方がいいだろう。
≪序章≫「留学」の動機
「どうしてロシアなんですか。」
留学の話をすると必ずきかれる質問の一つである。そして、返答に最も困る質問である。なぜなら、ロシアを選んだことには漠然とした理由はあれど、明確な理由はないからだ。
こう書くと誠実で善良な学生の皆様には大きな非難を浴びることになるだろうと思う。でも、残念だけど私は不真面目な学生なのである。そして、この適度な不真面目さこそがロシアに留学する上では欠かせないものであったと私は信じている。またまた誤解をうみそうな表現ではあるが、これもまた仕方ない。
もちろん「留学したい」という気持ちはあった。私の専門は日本語教育である。日本語教育とは外国人と直接関わる仕事であり、外国を日本以外の国を知ることは重要だと私は考えていた。実際に、海外で仕事をすることも多い職業であり、学生のうちどこか外国で1年程生活してみたいということもあった。だから「留学しよう」という気持ちはあった。あったのだが、ふんぎりがつかないうちにいつの間にか留学申し込み締め切りは終わり、3年目の終わりとなってしまったのである。留学はしたいが、締め切りは終わってしまった。(ここで締め切りに間に合わなかったのには私本人にはどうしようもなかった別の理由もある。それは家庭の事情なのでここでは控えさせて頂く。)途方に暮れつつもあきらめていた私に手を差し伸べてくれたのは私のゼミ担任であった。
当時のゼミ担任は留学派遣担当だったが、その年度末での転任が決定していた。そして、彼はある気がかりがあったらしい。それは13年前に協定校を結びながらも今まで1度も日本側から留学生を派遣してこなかったロシア国立ノボシビルスク教育大学のことである。そこに、訪れたのが私だったのである。
その日の私のゼミ担任訪問の目的は以前から宙ぶらりんとなっていた留学を正式にやめたことを報告することであった。が、私が「締め切りに間に合わなかったので・・・。」と理由を述べはじめると、ゼミ担任はにこやかに笑って「エジプトとロシアから追加募集がかかっていますから、どちらかいかがですか。」とおっしゃった。私が絶句したのは言うまでもない。余談ではあるが、私は暑いのが大嫌いである。そこで、とりあえずエジプトから断るべく「でも、私は厚いのは大嫌いなので…。」と言い始めると、では、ロシアがいいでしょう。とおっしゃる。最早、私に話の主導権はなく、気がついた時には親に電話でロシアへの留学報告をしていた。(もちろん親は大いに驚いた。)
そういうわけで、後はもう流れのままである。翌日には志望動機書など提出し、親に書類を見せ、一週間後には、ロシア国立ノボシビルスク教育大学への留学が決定していた。
≪第1章≫ ロシアへの留学動機と目的
というわけで、ロシアへ留学することが決まった。成りゆきというか、担任にのせられたとか、まあ、経過はともかくとして留学する以上はアエテ「ロシアに行く」同期と目的を持たなければならない。そこで、まず私は一つ打ち立てた。私の専門は日本語教育であり、将来目指すは日本語教師である。ゆえに、「日本語の授業を実際に行う。」
だが、これではあえてロシアにいく理由にはならない。そこで、次は土地柄を考えた。私が生まれ育った北海道という台地はロシアに近い。おまけに北方領土も抱えている。だから、毎年一定数のロシア人が北海道を訪れている・・・はずである。だが、実際にロシア語を話す日本人は少ない。だがロシアに近い場所に住む以上、ロシア語を習得するのは自分のためにもなるし、必ず大きな武器になるに違いない。だから、ロシア語を習得することを次の目標とした。
さらに、当時わが校には2名のロシア人留学生がいた。うち1人は私と同じゼミにいた。彼女は日本語がペラペラであり、しかも日本そのものについてもとても詳しかった。(陰陽道などは私よりも遥かに詳しい。)だが、私はロシアについてほとんど何も知らない。たいていの日本人は知らないし、ロシアに対してあまりいい印象もないだろう。だが彼女はとてもいい人だった。私は隣国ロシアを、あまりにもステレオタイプで見ていたのではないだろうかと常々感じていた。だからこそ、あまりいいイメージのないロシアという国を実際にこの目で見て知りたい。「ロシア文化やロシアそのものを知る。」これも目的の一つとすることにした。
以上の三転が大きな動機と目的である。嘘と言ってはいいけない。確かに後付ではあるが、嘘ではない。少なくとも私はこのつもりで行ったのである。
≪第2章≫ 留学までのスケジュール
①留学申し込みをする
12月末に学内書類を提出。すなわち成績証明書と志望動機書(日本語のみ)である。その次に、パスポートのコピーと個人情報をロシアの大学宛に大学経由で改めて発送する。これが3月末のことであった。
②ロシア語を習い始める
3月、個人情報などをロシアの大学宛に発送した時点で、留学は完全確定となる。しかし、この時点での私のロシア語力は0である。今まで、ロシア語などやったことがないのだから当然である。そこで、4月からロシア語を習い始めることにした。まず、大学の講義で週に1回。これは、基礎文法が中心となる。余談ではあるが、ロシア語は文法が非常に難しい。名詞・形容詞の格変化が各々6つずつ、しかも女性、男性、中性で異なるので、この時点で計36、それが複数形もあるので計72.ちなみにこれにさらに硬母音、軟母音が加わるので、さらに2倍になって・・・いや、よそう。そのほかに動詞の変化も加えて・・・となっていくと文系の私では容易に数えるのが不可能な基礎文法事項になっていく。
これだけでは、さすがに足りないと感じ、「北海道ロシア協会」というところでロシア語を学ばせてもらうことにした。これも、週1回。こちらはウクライナ人の先生による会話の授業である。しかし英語とも日本語とも文法が違うので、なかなか覚えられない。・・・難しい・・・。結局、完全に覚えられたのは「Меня зовут Лена.(私の名前はレナです。)」と、「Я приехал из Японии.(私は日本から来ました。)」の2文だけであった。後は、「こんにちは」「ごめんなさい」などの挨拶のみであった。
③ビザをとるまでの長い道のり
ロシアに入国するためには例え観光だろうがビザがいる。1日の入国だろうがトランジットだろうが(例外はあるが)、ビザがいる。ましてや1年も住むとなれば絶対である。そのためには、まずエイズにかかっていない証明書が必要である。それから、正式な招待状が必要である。招待状は受け入れ先の大学から大学宛に送られてくるはずである。
私が必要書類を送ったのは3月。しかし、待てども暮らせども招待状は来ない。いくら待っても来ない。ちなみにビザを取得するのには1ヶ月前申し込みなら1000円、それよりつまると1万円、2万円、とどんどん高くなっていく。お金のない私はあせった。
そして、7月上旬。ようやく招待状が届いた。・・・自宅に。・・・私は大学宛に送るように頼んであった。なぜ、家に届いたのかは今もって不明である。こうしてギリギリセーフで何とかビザの申請を頼み、その足で旅行会社へ行き航空券を手配。
ここにいたって、ようやく留学の実感がわいてきたのであった。
④いざ、出発!入国!お迎え!
特に大きな問題もなく日本を出国。旅行会社の方に「税関申告書は2枚書くように」と口をすっぱくして言われるも、1枚で実はOK。入国でチェックが厳しいと聞いていたがそこもあっさりスルーパス。ハバロフスクの乗り換え駅で外国人ゲートとロシア人ゲートが別々で道に迷うも何とか乗り換えに間に合う。やたらとうるさくて揺れる飛行機で具合が悪くなった頃ノボシビルスク到着。出迎えのゲートは外。真夜中なので、結構怖い。
情報によれば「エレーナさん」という方が迎えに来ることになっていた。入り口にいたロシア人女性が日本語で話しかけてくる。「タハラさんですか?」私はキタハマである。当然答えは「いいえ。」。しかし、待てども待てどもお迎えの人が来ない。・・・ちょっと待て。そして、乗客がだれもいなくなり、最後に残ったのは私と先ほどの女性。2人は顔を見合わせ、そして女性が話し掛ける。「失礼ですが、札幌の教育大の人ですか。」「・・・はい。」
そして、私が彼女に聞く。「エレーナさんですか。」「違います。」「ノボシビルスク教育大の人ですか?」「はい。私はアンナです。」・・・とりあえず無事に出会えたので良かったことにする。
こうして、大いなる不安とともに私の留学生活が幕を開けたのである。
≪第3章≫ 日常生活
①基本的時間割
ロシアに着き、外国人登録などを終えて、2月から授業が始まる。私のロシア語力は0なので基本科目はロシア語。これに日本語の授業(見学)が加わる。さらに、私の他に中国人留学生(3名。ロシア語歴2年)もいたので、彼等との授業もある。基本的な前期の時間割は以下の通りである。
日本語とあるのは授業見学である。これが大分慣れて後期になると話は大分変わり以下のようになる。
※バイト1は工業大学での日本語の授業、バイト2は小学生への家庭教師である。ちなみに水曜日の指導は留学先である教育大学に無料で日本語を教えていた。空白の時間は、大概昼宿題、調べもの、夕方は買い物、夜は宿題、読書などをしていた。
異常が私の基本的時間割である。コマ数が少ないように見えるが、ロシア語の授業は1日やっても終わらないような膨大な量の宿題が出るので、はっきり言って時間は全く足りなかった。
④留学おもしろエピソード
私はたいへんつまらない人間である。ゆえに面白エピソードなどという素敵なものは残念ながら存在しない。なので、おもしろエピソードではないが、ちょっとした話を紹介しよう。それは名前についてである。
御存じの方もいるだろうが、ロシア人の名前はヴァリエーションが少ない。そのため、同じ名前の人がたくさん存在する。同じクラスに「ナターシャ」が3人いることなどざらである。そのため、「今日マーシャに会ったわ。」「マーシャ?どの?」等という会話は日常茶飯事である。さらに、ロシア人にとって中国人や韓国人の名前は覚えにくい。そのため、彼等はロシア語の名前を持っている。ゆえに、ロシア人は日本人もロシア人の名前を持っていると思い込んでいる。そこで、私の名前である。
私の名前は「レナ」という。これは、戸籍に登録されたれっきとした本名である。ロシアには「エレーナ」という名前が存在し、これの愛称は「レナ」である。厳密にいうと発音が違うのだが、日本人が発音すると区別はなくなる。(RとLの区別が日本語には存在しないため。)というわけで、私の名前を本名ではなくロシア語の名前と勘違いした人はずいぶんといた。というか、初対面のロシア人(のみならず中国人や日本人も含めて)で私の名前を本名だと思った人は一人もいない。皆、一様に尋ねた。「あなたの本名は何ですか?」・・・本名である。しかし、しかしこれを納得させるのは容易ではなかった。漢字で名前を書くかパスポートをみせるかである。それでも、「君の本名は何?」「レナって本名なんだけど」「本名?君、本名って単語の意味わかっている?日本の名前ってことだよ?」「わかっているよ!これ、本名だってば!!」「へぇ?信じられないね。君、本当に日本人かい?」などという会話がなされるのである。あげくに、「レナって本名なの。」と納得すると、「じゃあ、ロシアでいうところのエレーナ、フランスでいえばエレンだな。よし、君は今日からエレンだ。」とか言い出すおっさんもいたし。フランス語にする意味が分からん。
とまあ、おもしろくもなんともないが、ちょっと心に残ったエピソードであった。念のため言っておくが、私の両親はロシアとは無関係の人間である。私の名前もロシアのことなどは全く考えずにつけた名前であるということは明記しておく。
≪第4章≫ これから留学する人へ
以上が私の簡単な留学報告記である。わかりにくい部分も多数あったかと思うが勘弁して頂きたい。最後に、これからロシアへ留学を考える人への言葉を添えて終わりたい。
ロシアというとテロが横行しているイメージが先行するだろう。そのことを否定することは残念ながらできない。しかし、それはあくまでモスクワ及びモスクワ近郊の話である。確かに、モスクワ及びモスクワ近郊はチェチェンともからみ、かなり危険である。故に、モスクワへの留学を軽々しく勧めることはできない。だが、ウラル山脈より東側にはめったなことではテロは来ない。もちろん安全とは言い切れないが、それは何もロシアに限ったことではない。
ロシアはテロだけの国ではない。素晴らしい文化とおおらかな気性の持ち主である。さらにあのだだっ広さ。留学してもその一部をみることにすぎないのである。だが、その一部には大きな魅力がつまっている。そして、何よりもロシアは日本との、特に北海道とのかかわりが深い。これまでは、非友好的な考えが長かったが、ロシア人そのものは日本人に好意的である。
冒頭に述べたように成りゆきで留学した私だが、後悔は全くしていない。今や留学しなかった自分など考えられない。ロシアのどこに留学するかは治安面も含め、じっくり検討すべきである。だが、ロシアのどこかに留学することをためらわないで頂きたい。治安面も含めて納得がいったら、思い切って飛び込んでほしい。きっと素晴らしい経験が待っていることと私は思う。
~留学アンケート~
①その国に持っていってよかったもの
→たくさんあるが、ウォークマンやドライヤーはかなり有効。続いて、オペラグラス!これは絶対あったほうがいい。それから、包丁。向こうの包丁の切れ味は最悪。あとはやはり、着物を持っていくと便利。
①-2持って行かなくて後悔したもの
→実はあまりない。でも、ノートパソコンは多少の危険を冒してでも持っていくべきだった。それから本!私は活字中毒だったので、分厚い本を持っていけばよかったと後悔した。
②現地人が喜ぶ日本のものは何?
→食べ物。あんこ、白玉、「寿司太郎」、まぜご飯の素、インスタント味噌汁など。他には、折り紙(本付き)、絵葉書(浮世絵)など。
③どんな病気にかかったか。その対処法は?
→風邪。3ケ月に1回くらいのペースでやられた。新年はインフルエンザにも。対処法として、日本から持って行った薬を飲んで野菜を食べて寝ていた。後半は解熱剤と頭痛薬と咳止めが切れて、現地の小児用薬を買って飲んだ。ものもらいになったが、抗生物質を飲み、コンタクトと化粧を控えることで治した。
④1番おいしかった現地の料理は?
→これも好みがあるだろうが、私はボルシチ(これは説明不要なはず!)。それから、カローシックというつぼ焼きも美味しかった。
⑤現地ならではの趣味やスポーツをしたか?それは何?
→冬のスケート。寒いけど面白かった。生まれて初めて滑った。他の季節はやたらと散歩をしていた(笑)。
⑥現地で自分が買いたい衣服はあったか?どんなものを買ったか?
→-40℃対応のコート、帽子、手袋、厚手タイツ、セーター、モコモコ、の靴などは買わざるを得なかった。また、夏物を持っていかなかったが、5月には37℃まで上がってしまい、Tシャツ、ワンピ、サンダルなどの夏物衣服も慌てて買った。買いたかったけど買わなかったのは、ミニスカートや派手なブラウス、それにフォーマルなドレスなど。
⑦ネット、音楽、書籍、テレビなど情報環境はどうだったか?
→ネット環境は最悪。PCは台数が少ないうえに、時間制でおまけに有料。寮だったが、ラジオ、テレビはない。一応ホールに白黒テレビ(チャンネルは3つくらい)があったが、冬場のホールは-15℃程だったので、あまり見なかった。ラジオは安く買えるし、頼めば誰かが貸してくれる。ラジオでも一通りの情報は入手可能なので、主な情報源はラジオだった。音楽はロシアのポップス、ヨーロッパの音楽を中心に聞くことができる。ロシアポップスは回転が遅くて一定のヒット曲が半年間ずっとかかっている。
⑧留学中の気分転換方法は?
→買い物。銀や木細工が安かったので、ピアス、指輪などのアクセサリーを中心に買い、ストレスを解消。
⑨盗難、差別などの事故にあったり、逆に特別に親切にされたことはあるか?
(盗難や差別)→サンクトペテルブルクに旅行に行った際に、鞄から財布をすられた。また、私自身は被害にあっていないが、隣室から現金がなくなったこともある。また、冷蔵庫やホール台所においておいた物(サランラップ、教科書、ソーセージ、卵など)はよくなくなった。そちらは私もよくやられたので被害額は相当なものになったかもしれない。日本人差別はないが、外国人差別はあって、共通の場所が汚れていると、私がやったわけではないのに、寮母さんによく叱られた。
(親切にされたこと)→よくあった。日本人が少ないせいか、「日本人だ」と名乗るとやたらと親切にしてくれる。バス代を奢ってくれたり、野菜を安くしてくれたり、食事をおまけしてくれるなど。
⑩親しかった友達の国籍は?
→もちろん、ロシア。それから中国、パキスタン、韓国の友人もいた。
⑪現地で一番面白かったテレビ・映画・CD・漫画は?
(テレビ)→天気予報とドラマ。天気予報は想像していただきにくいかもしれないが、全国版をやるのにものすごく時間がかかる。(ロシアの国土があまりにも広いため。)そのため、生放送のアナウンサーなども、ものすごい早口で天気予報をする。ドラマは探偵ものが面白かった。
(映画)→実は、映画館でやっていたのは主にアメリカ映画ばかり。が、テレビやビデオでロシア映画も見た。ロシア映画はどれも面白いが、やはり賞を取った『モスクワは涙を信じない』はいろんな意味でとても面白い。(つっこみどころが満載である。)
(CD)→これは個人的な趣味だが、「未来からのお客」というグループの曲全般と、レオニード・アグーチンという人の「境界」という軍隊がらみの曲が好きだった。ちなみに日本で有名な「タトゥー」は人気がなかった。いや、一応あったみたいだが、なくなったという感じであろうか。
(漫画)→日本のコミックに相当するものはない。ただ、アニメは非常にレベルが高く、すばらしいものが多い。私はうさぎとおおかみがおっかけっこするアニメが好きでした。(トムとジェリーみたいな物)
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