オーストラリア ブリスベン & マレーシア クアランプール 私費英語留学 (市川 Vol.2)

アメリカ・オセアニア

名前  :市川 聡美(北海道大学 経済学部3年 高井ゼミ)
留学先  :オーストラリア ブリスベン市
 :マレーシア クアラルンプール市
期間  :2003年9月~2004年3月
留学の種類:私費・語学留学(休学して3年の後期~)

留学の動機:
インドに一ヶ月半、旅行してから、海外に対しての興味は強いものになった。
オーストラリア→英語圏で、さまざまな人種がいて、アジアに近いという点で決めた。
マレーシア→純粋な英語圏だけではなく、アジア文化に触れながら英語を勉強したかったので。

留学までのスケジュール:
2003年7月~8月 ビザと航空券を入手
9月 オーストラリアに向けて出発
2004年1月 マレーシアに向けて出発
3月 日本帰宅

費用:
オーストラリア: 1ヶ月 学費 7万円 ホームステイ 4万円
マレーシア  : 1ヶ月 学費 3万円 ホームステイ 3万円くらい
航空費 17万 オープン6ヶ月
旅行費 20万くらい

≪留学の動機≫
 また私の海外に行きたい病、日本にいたくない病が発症した。初めての海外旅行でインドに行ってから、私の海外に対する興味は強いものになっていた。もっと色々なものを、自分の目で見てみたい。そして、もっと現地の人や、知り合った人と話しをしたい。英語が話せない事で、自分の言いたいことが言えないもどかしさも、私が理解できない事で、何回も話してもらう恥ずかしさも、もう味わいたくないと思った。そこで、秋が始まり、寒くなってきた北海道から、春から夏に向かう南半球のオーストラリアに向かった。オーストラリアは日本との時差も少なく、北のほうは年中暖かいし、位置的にアジアとの結びつきも深い。オーストラリアの後にアジアの国にも行きたいと思っていた私には、ちょうよい場所だった。オーストラリアで三ヶ月くらい、しっかり英語の勉強をした後、アジアの国を見て日本に帰国しようというのが、私のこの留学の計画だった。

≪オーストラリア≫
~ブリスベン~
 航空券を予約したのが遅かったので直行便がとれなくて、マレーシア経由でオーストラリアに入り、さらにシドニーに行き、ブリスベンといった飛行機の長さに私は大変疲れていた。なれない英語に戸惑いながらも、飛行場から町へのタクシーの中で、私は初めてブリスベン川を見た。長くゆっくり流れる川は、とてもゆったりしていたし、その川に面して講演が長く続いていて緑がいっぱいだった。夜はライトアップされるし、クルーズ用客船が川をゆっくり横切っている。また、その公園には砂が敷き詰められた人口ビーチがあり、子供たちから大人まで日光浴したり、泳いだりしている。その近くには、無料のバーベキューコンロが置かれていて、肉を焼いているグループもいる。私の行った九月、気温は思っていたよりも寒かった。半袖しか持って行かなかったので、上着が必要だった。今年が特別例年より寒かったらしいので、北海道出身の私にはよかったのかもしれない。それか、私が日本から寒さを運んできてしまったのかもしれない。
 オーストラリアは元々移民の国なので、町にはいろいろなナショナリティの人々がもちろん歩いている。その中でも留学生の数は半端ではない。語学学校も星の数ほどある。また学校には、半分以上がアジア人だった。先生もホームステイの家族も、そして町の人達までもが、留学生に友好的だし何より慣れきっている。差別にあうとか、珍しがられるとか、そのような事は全くなく、不便に感じることは特になかった。
 私が見てきたオーストラリアの人たちは、五時には仕事を終え、家路に帰り、夕飯を家族と必ず一緒にとり、テレビを少し見て寝る。週末には公園や、山や、海に行き、子供たちや友達と外で過ごす。こうしたなんとも一見、単調に見える生活を繰り返している。私の町、ブリスベンの町はとても小さくて、町に出かければ必ずだれか友達に遭遇する。六時になると全ての店は閉まったし、スーパーまでもが閉まってしまう。交通機関はバスしかなかったし、その本数も少なかったので、夜に友達とご飯を食べに行ってもすぐに帰らなければならなかった。だから、夜に町に若者がいるということもあまりなくて、若者はいったい何をしているのだろうと不思議に思った。先進国として最低限度の生活ができればよく、それ以上は特に望んでいないように思われた。子供たちも自然がいっぱいの中でのびのびと生活している。

~ホームステイ~
 私のホームステイの家族は、両親が共働きをしていて、四歳の男の子と六歳の女の子の家族で、今が一番子育てが大変な時期のようだった。料理の当番は、お父さんだった。お父さんの料理は、どれもおいしいし、アジア、イタリア、ギリシア、メキシコといったさまざまな種類の料理を作ってくれたので、夕食がいつも待ち遠しかった。学校であったことを話したりしながら、いつも楽しくそのおいしい食事を楽しんだ。子供たちは「私の学校の一番の友達は、中国人の~ちゃん。」という具合に偏見などももたず、私に対しても大変好意をもってくれていたみたいだ。私は本当にこの家族のもとで、ホームステイする事が出来てよかったと思う。1,2ヶ月経つと、シェアハウスに移る人が多い中、私はこの家族が大好きだったので離れることが出来なかった。私とこの家族との絆は、私が去る時のあの悲しさと辛さが証明していただろう。しかし実は、私が最初にオーストラリアに来た時のホームステイの家族は違った。母子家庭の家族だったのだが、夕食の料理は肉のみでご飯もパンも何もない。留学生が4,5人いて、母親の職業は看護婦と書かれていたが、いつも家にいてテレビを見ていたので働いているとは考えられなかった。子供は私にお金やおやつをせがんできて、そのことを母親に言うと、母親は注意すると思ったのだが、母親は「よかったわねぇ。お菓子を買ってもらえて。」としか言わなかった。典型的な留学生の収入で生活している家族だと思った。そのことを友達の台湾人に話すと、私をホームステイに関する学校の事務のところへ連れて行き、私の相談を手伝ってくれた。前の家族にいやみを言われるなどの嫌な思いはしたが、次の家族の事を思うと本当によかったと思う。ホームステイは、人間関係で合う、合わないがあるので、合わないと思ったのならすぐに変えた方がいいと思う。

~オーストラリアの文化、問題~
オーストラリアでは、伝統的なオーストラリア料理というものはないに等しいが、そのかわり、日本の寿司、東南アジア料理、ヨーロッパ料理など、フードコート、とにかくいたるところで色々なものが食べることができる。また、福祉の分野は日本から訪問者が訪れる程しっかりしたもので、特に専門医や看護婦が家を訪問する自宅療養の考えが強い。色々なナショナリティが混在する国としては理想的であると私は思う。
 しかし、そんなオーストラリアにも、多文化主義の考えが浸透すればするほど、避けて通れないのがアボリジニーの問題である。オーストラリアのアボリジニーは、祭典や町の街頭で、音楽やダンスをしてお金を集めていた。「私たちはアボリジニーの人たちとうまくやっている国です。」ということを世界に示すために、わざと誇示しているようにも見受けられた。しかし実際は、文化的、経済的不平等があることは否めない。先住民の文化を尊重しつつ、いかに共存していくかは多くの国が抱える問題である。
 また、オーストラリアは位置的にアジアとの結びつきを強めているようだが、英語を話す国として、情報を得るのはヨーロッパやアメリカからの情報であり、白人優位主義が色濃いようにも感じた。私自身は、前にも述べたように差別などは全く受けなかったのだが、友達の韓国人は、「国へ帰れ、アジア人」などの罵声を浴びせられたらしい。また、アジア人の奥さんを持つ先生の話では、奥さんがスーパーで買い物をすると正規の料金で売ってくれないなどの問題があることを聞いて驚いた。
 また、歴史が新しいので、文化的価値がない事に対する寂しさとか、物足りなさを感じた。つまり、料理、建物、文化など、色々なもののよりあわせという事は、伝統的と言われるものがないという事なのである。私はオーストラリアに来たのだが、私がどこにいるかはわからないという感じを受けた。そのような中でも、オーストラリアの建国記念日の日には、人種の違いを超えて、全てのオーストラリア人は顔にオーストラリアの国旗をつけて、旗をかざし、「私はオーストラリア人です。」と胸をはって祝っていた。そのまとまりや、オーストラリア人という定義が、日本人の私には理解できないところであった。

≪日常生活≫
~学校~
 私の学校は生徒の仲がよく、先生も友達感覚で接してくれたので、発言の機会もあって授業は楽しかった。朝から夕方までの授業の後や週末に、ヨガ、映画、カフェ、旅行といったアクティビティも開かれていたので、それらも仲良くなるよい機会だったと思う。クラス構成は、上級クラスは韓国人がいっぱいで、初級クラスは日本人が多かった。アジア人が多かったが、他の国々の生徒も少ないながらもいたので、興味深いディスカッションをすることができた。一般英語コースとアカデミックコースがあり、目的にあわせて変えることが出来る。また、私は学校が終わった後に、フリースクールに行っていた。これは、オーストラリアでは、たくさんの人が英語教師になりたいと思っていて、こういう人々の練習の場であるといっていいのかもしれない。彼らも私たちの下手な英語を聞いて理解し、どう教えていけばよいかという勉強の機会になるのである。

~パーティ~
 私の学校にはいつも誰かしらオーストラリアを去る人がいて、週末はお別れパーティが開催されていた。その主催者の人の国によって、違った趣向のパーティになるので本当に楽しかった。また、日本人に対して皆、好意的に接してくれた。韓国人の時は、韓国人仕込みのキムチやプルコギの料理を用意してくれたし、ブラジルの人の時は、カポエラという武術やブラジルダンスを教えてくれた。また、スペイン人の時は、サルサダンスやフラメンコを見せてくれた。夜でも外は暖かいので、公園でバーベキューというのもよくあった。そういうパーティにはいつも人がいっぱいで、オーストラリア人なども来ていて、社交的に話すことで色々な文化を受け入れることができたし、英語の上達もおそらくその場であったと私は思う。
 ここでは英語の上達もさることながら、色々な異なる国の人々の中で、どのような会話をしたらいいかという事が、大変難しかった。自己紹介や当たり障りのない会話から始まって、その後の間をどのように埋めたらよいかが最初は戸惑った。ここで私が気付いたのは、誰でも自分の国について話されるとうれしく感じる事である。自分が相手の国について少しでも知っている知識を示すと、相手も喜んでくれるし、話をスムーズに続けられる。また、私が海外にいた頃は、日本を題材にした映画ブームだったので、それらについても説明を求められる場面が多々あった。これは海外に行ったことのある人ならだれもが感じた事だと思うが、日本の文化についても、もっと勉強するべきだったと反省した。
 異文化交流と一言で言っても、奥が深い。私は授業で、愛国心について授業でディスカッションした時、持ち前の好奇心と気の強さで、韓国人は自国が一番だと思って、自国しか見てない。などと韓国人の友達の愛国心の強さを批判し、国際化についての自分の意見を述べた。もちろん悪気はなかったのだが、後でゼミの先生に「文化間の違いを尊重し、発言に気を付けるように。まして、韓国や中国は、反日感情が俄然強いことも気をつけなければならない。」との忠告を受けた。私の友達は穏やかな人だったので、その後問題にもならなかったし、仲良くやっていけたのだが、私は深く反省した。
 異文化交流というのは、やはりどこかで自分とは違う文化に対して、相手の文化への尊重を絶やさず、遠慮しつつ、そして仲良くして、付き合っていかなければならない。オーストラリアを離れる時に書いてもらった私へのメッセージ帳には、「あなたは、日本人らしくない人です」というメッセージがたくさんあった。「もちろんいい意味で」などと付けたした様に書かれていたが、私はどう違うと思われていたのだろう、また、いったい日本人のイメージというものはどんなものなのだろう。

~日本人の態度~
 海外へ行く女の子へ気をつけて欲しい。それは、日本人の女の子は海外で男の子にもてる。これは、誰かがということではなく、日本人の女の子ならだれでももてるのだ。「何人ですか?」と聞かれて、「日本人です」と答えると、相手の顔が一変する。もともと、日本人はたいていはっきり断ったりするのが苦手だし、身体が大きくて強そうな相手に、しかも英語で対応するのはけっこう疲れる。「彼氏がいる」とか、そんな生半可な断り方では通じない。相手にとってはそんな事関係ないのだ。無視したり、英語がわからないふりしたりするのがいいのかもしれない。歩いていても誰かが話しかけてきて、無理やり友達になろうとしてくるので、そういうのが嫌な人は、はっきりとした態度をすることが必要である。これは女の子だけではなく、日本人の性格における問題だが、とにかく欧米人は自己主張もはっきりだし、yesかnoをはっきり示すので、私たちもちゃんと言うようにしたほうが語外を避けることができる。

≪いいね、日本人で≫
 私にとって一番自分が日本人であること、ナショナリティを感じたのは多分この時である。私の友達のコロンビアの男の子が、ヴィザがきれそうだったのだが、勉強を続けたかったので、ヴィザを延ばそうと大使館と揉めていた。普通ならば延ばせるという状態だったにもかかわらず、コロンビアという国のせいで延ばす事ができなかった。彼はいつも冗談を言ってみんなを笑わせていて、クラスの人気者だった。コロンビアに帰る前の日に、彼は私に、「いいね、君は日本人で。」と言ったのだった。
 私は何も答える事ができなかった。その時、私が自由に海外旅行に行けるのは、私が日本人であるおかげなのだということを再認識した。彼は、オーストラリアに英語の勉強に来るのも大変な苦労で来たし、他の英語圏の国に行くのも大変難しいと言っていた。私たちはこれだけ打ち解けて偏見もなくなり仲良くなった後も、彼はコロンビア人であり、私は日本人であることを思い知らされた。
 そもそも、私は愛国心も強くないし、日本人であることを今まで考えたこともなかった。しかし、私がオーストラリアに英語の勉強に来る事ができたのも、オーストラリアと日本の両国の関係があって、初めて遂げられるものなのである。私は、一個人として内面で判断されるだけではなく、日本人である私としても判断されているのだ。また、私自身も中国人や韓国人に間違われた時に、「違います、日本人です」とはっきり否定し、侵害だとまで感じるのは、私にも日本人であるというアイデンティティがあるからだとわかった。これは、私にも差別の感情があるのだろうか。日本の問題点に関しても、自分から述べるのはよいが、他国の人に言われると、なぜか大変腹が立つ。日本を出て海外で暮らしたことがある今だからこそ、私は日本人として日本を応援していこうとか、愛国心なるものが芽生えた洋な気がする。

≪オーストラリア人の環境に対する意識≫
 年越し休みに私は、韓国人とスペイン人の男の子と日本人の女の子のクラスの友達と、二泊三日のウィッツサンデー海の近くのコテージと、二泊三日のグレートバリアリーフのセイリングツアーと、移動もあわせて一週間のツアーに申し込んだ。男の子たちは釣り好きで、二人で釣りに出かけては、サメや色々な魚を釣ってきて私たちは自分たちで料理して食べた。三日間の船の旅、船といっても競走用ヨットで船を動かすのも自分たちだし、揺れるし、シャワーは一分しか浴びることができないし、なかなかサバイバルなものだった。25人くらい乗組員がいたのだが、私たち留学生以外はオーストラリア人だったので、彼らの旅行の仕方、遊び方を知る良い機会だった。彼らは英語の下手な私たちにも「おい、子供たち」という具合に呼んでくれて仲間に入れてくれた。また、ツアーにも友達同士でというわけでなく、個人、一人で申し込んでいる人が多かったようだ。彼らは、朝早くからビールを飲み、海で何時間もシュノーケリングをして、更に何時間もブッシュウォーキングで歩き続け(しかも驚く事に、女の人も山の中を裸足で歩いていた。)、夜中何時までも歌って飲み続け、また次の日朝早く起きた。並大抵の体力ではない。日本人ではありえないと思った。
 しかし、彼らのそれだけの体力が幸いしてか、自然との調和を上手く果たしていると思った。彼らはビールが好きで、歩きながら飲んでいるにもかかわらず、大きなゴミ袋も必ず欠かさない。山道も歩きづらいのだが、必要以上に舗装したりはせず、そのままの姿にしてあるし、動物たちにもひどく気を使っている。個々人の意識が発達している。さらに、環境の保全のため決められた法律や、管理する専門家などが多く入る事もあげられる。彼らは皆自然を愛し、大切にし、一緒に暮らす術を知っていると感じた。

≪マレーシア≫
~マレーシアまでの道~
 オーストラリアの生活が落ち着いて、英語もさほど苦労することがなくなり、友達もたくさんできたのだが、なんとなく変化のない物足りなさを感じていた。そこで、鳥インフルエンザやSARSなどの懸念もあったが、予ねてからの予定だったマレーシアの首都クアラルンプールへ向かった。インターネットで探した学校とメールのやり取りは何度かしていたが、実際に見てから決めようと思っていた私は、とりあえずマレーシア行きの飛行機にのった。飛行機の中で隣の席に座った中国人のおじさんが、私が一人で宿も何も決めていないと言うと、大変心配してくれて「日本人の女の子とは考えられない、君は勇敢だ」と言ってきて、町まで一緒に行ってくれた。彼は何度もマレーシアに来た事があるらしく、私に詳しくマレーシアに来た事があるらしく、私に詳しくマレーシアについて説明してくれた。クアラルンプールは、車の交通渋滞で、ほこりとけむりですごかった。気温は、暑さで言えばオーストラリアの夏よりは涼しかったのだが、その分湿度は高くて蒸し暑い。毎日、一時間くらい大粒のスコールが降る。町には、ペトロナスツインタワー、大きなショッピングモールもたくさんあった。デパートには、日本企業も多く、日本の商品を買う事が出来た。

~マレーシアでのホームステイ~
 マレーシアに来た次の日に地図を見ながら、学校まで自分で行き、手続きをした。学校のアコモデーションは、相部屋で気に入らなかったので、その旨を言うと、そこで働いているインド人の男の子が、「ホームステイはどう?奥さんがイギリス人の英語の先生で、一歳の赤ちゃんがいて、インドネシア人のベビーシッターがいて、共通語は英語だよ。」と言ってきた。「私は英語の練習ができるなら、なおいいです。と答えた。すると、彼は「僕の家なんだけどね。」と言ってきた。それで私はその何ともナショナリティが混在する家庭でホームステイする事になった。全く何も決めていなかったので、危うく家無しになるとこだったのだが、全くの偶然だった。奥さんは英語の先生なので、仕事は帰りまで遅く大変そうだった。私は国際結婚を目の当たりにして、大変興味深かったし、疑問に感じた。子供は、まだ一歳だったので話すことができなかったが、英語を話すのだろうか。旦那さんのインド人は、ヒンドゥー語とマレー語と英語という三ヶ国後ほぼ話せた。私は「いったいどの言語が、ネイティブなのですか」と尋ねたが、「本人も特に意識してないし、育った環境なのでしょうがない」と言っていた。また、家族や友達が来た時も、通訳が必要でおもしろかった。しかし、この家庭も人種の違いにもかかわらず、夫婦仲良く暮らしていて、私にも大変親切に接してくれた。今でもマレーシアでの貴重な体験ができたことを、私は感謝している。

~食事、文化、宗教~
 マレーシアでは、マレー人、中国人、インド人と三つの人種が混在している。だから食べ物は、マレー料理、中国料理、インド料理とどこででも安く食べることができるし、彼らが話す共通語は英語なので、テレビなども英語のものが多い。彼らは、学校で特別に教育を受けたわけではないが、文法の間違いが多少あるにせよ、英語を話すことができる。私は中学から大学まで教育を受けてきたにもかかわらず、上手く話すことができない自分自身が恥ずかしくなった。
 マレーシアはイスラム教の国であるが、私が思っていたよりはずっと、宗教は名ばかりのものになってしまっているようだった。このことはアラビア系の友人たちも言っていた。お酒を飲むところもたくさんあり、そこは元々外人や、違う宗教の人の為に作られたものであるが、イスラム教の若い人たちも来るようになってしまったらしい。まして、私はスカーフをした若い子供が喫煙するところも目撃した。男女のカップルが町で手をつないでいる姿もよく見かけたし、女性の服装も軽いものになってきているようだった。これらの若い人たちの宗教離れが、今マレーシアでは年配者の間で問題になっているらしい。どこの国でも発展すればするほど、宗教や伝統が失われていくという問題を抱えるものである。

≪学校生活≫
 学校では、先生はイギリス人の先生で、ほとんどの生徒が初級クラスだった。上級クラスは、私を含めて二人しかおらず、ほとんどプライベートレッスンみたいなものだった。生徒は中国人とアラビア系の人が多かった。オーストラリアでは、学校の値段も高かった。これらの国の人々はあまり来ていなかったので、また違う国の人と異文化交流ができて嬉しかった。
 中国人は日本語を話せる人や、日本に留学した事がある人が多かった。しかし、仲良くなった中国人の女の子の友達に「私、日本人自体は好きじゃないよ」と言われて、複雑だった。彼らは、中国の経済が発達していることを大変誇りに思っているようだし、勉強や働く事に関する意欲も強かった。何十年か前の日本人も彼らのようだったに違いないと私は思った。
 アラビア人は、色々な意味で、私にとって異色の文化を持っていた。彼らは好意的だったが、やはり宗教的な意味で私は困惑することが多々あった。サウジアラビアなどの国は、私が旅行しようと思っても、観光目的ではヴィザが下りない国である。そういう点でも一期一会として、マレーシアで友達になる事ができたこの機会を十分に生かして、異文化交流をしたいと思った。一緒にご飯を食べたり、お祈りをしているところを見たり、仲良くなったが、私は反米感情の強さを感じざるをえなかった。パソコンでアラビア人たちのサイトを見た。そこにはアメリカとイラクとの戦争の写真などがあって、おもわず目を背けたくなるものだった。彼らは宗教の為、聖戦のためならば、命をも犠牲にできるに違いないと私は感じた。彼らは私に対して、本当に仲良くしてくれたのだが、ある部分では恐ろしく感じた時もあった。
 オーストラリアからの友達のスペイン人がマレーシアに遊びに来たので町を案内していると、私のアラビア人の友達と出くわした。私は複雑な気持ちだった。というのも、その時はちょうどスペインでテロ騒ぎがあった直後だったからだ。私は、紹介した後の彼らの気まずい顔を見て、どうしていいのかわからなかった。歴史的な問題というのは、簡単には拭いきれない問題だということを私は受け止めた。

≪マレーシア、タイへ旅行≫
 日本に帰るまでに、また旅行に出かけた。オーストラリアに行ってから、エコツーリズムに興味を持ち始めた私は、マレーシアの内地のジャングルとタイに近い島に出かけた。マレーシアとタイは、料理や観光資源、位置的に気候も似ているのだが、全く違うのは宗教である。タイが観光国として有名であるのに対して、マレーシアがそこまでではないのは、イスラムの国であり、お酒が飲めない、厳しいというイメージが大きく関与していると思われる。
 両国とも自然が急激なスピードで壊されている事を感じた。特にタイの島には去年も来た事があったので、その変わり様にびっくりした。島では、外国人のための大型ホテルがビーチ周辺に出来始めていて、大型の船が乗り入れる事のせいか珊瑚は壊されていた。先進国の人々は、これらの国々に旅行で来てお金を落としていくだけではなく、観光資源を残そうとする努力をする義務があるのではないかと思う。彼らと話した時、「観光資源を残すための問題は、観光客の量ではなく質である。」と言っていた。私たちは、生の自然を見に来たと言いながらも便利さを求め、破壊された自然、作られた自然を求めている。
 私はまた、マレーシアのジャングルの中のアボリジニーの村にも行った。そこは観光客の為に開放されていたのだが、金色の腕時計をつけて、ジーンズをはいた彼らが火をおこす姿を見て、これはいったい何なんだと疑問に思った。かれらは、そうする事で旅行会社からお金を受け取り、生活をしているとのことだった。オーストラリアでも共通していたが、これらは、本物のアボリジニーではもはやない。ただの文化を利用した見世物であると私は思った。

≪おわりに≫
 今回、留学という事で二つの国に住んだが、私にとっての留学の成果は、英語の上達というよりも、異文化交流ができたことである。この経験は、私にとって測る事のできない財産であると信じている。未だにチャットなどで東から西まであらゆる国の人たちと話をする。また、日本を出た事で日本の文化の大切さ、日本人である誇りも学ぶ事が出来た気がする。これから留学に行く人たちには、机に向かう勉強は日本でも出来るので、社交的に外に出て異文化に触れて欲しい。

~留学アンケート~
① その国に持っていってよかったもの。
日本の食べ物、飲み物(お菓子とか日本酒とか(笑))友達に勧めて話のネタになる。
①-2 持って行かなくて後悔したもの
特にない。何でも手に入る。
② 現地人が喜ぶ日本のものは何?
ホームステイなどは、日本の代表的なモノをすでに持っていたりする。電化製品は喜ばれるが高価すぎ!
③ どんな病気にかかりましたか。その対処方法は?
風邪くらい。しかし、食べ物と気候が違うので体力を消耗する。暑すぎて脱水症状。こまめに水分補給
④ 一番おいしかった現地の料理は?
ひたすら外でバーベキュー。安くて量が多い。(オーストラリア)
マレー、中華、インド料理とどれも安くておいしい。トルコとかアラビア料理も食べれる。(マレーシア)
⑤ 現地ならではの趣味やスポーツをしたか?それは何?
セイリングツアー(スポーツなのか?)三日間競技用ヨットで、寝起きも食事もずっと海の上。揺れはきつかったが、楽しかった。
⑥ 現地で自分が買いたい衣服はあったか?どんなものを買ったか?
暑いので、わりと身体が出た服。
⑦ ネット、音楽、書籍、テレビなど情報環境はどうだったか?
友達とどこかに遊びに行ったり、色々な国の人々に交じってみる。
⑧ 留学中の気分転換方法は?
友達とどこかに遊びに行ったり、色々な国の人々に交じってみる。
⑨ 盗難、差別にあったり、逆に特別に新設されたことはあるか?
マレーシア最初のホテルの自分の部屋で、記念にとっておいたオーストラリア紙幣が盗まれていた。わりと値段が高いホテルに泊まっていたので、スーツケースに鍵はかけていたが、リュックに鍵をかけていなかった。不覚。日本人の女の子は、基本的にどこででも親切にされる。
⑩ もっとも親しかった友達の国籍は?
スペイン、タイ、韓国、ロシア、コロンビア、サウジアラビア、などなど。
⑪ 現地で一番面白かったテレビ・映画・CD・漫画は?