カンボジア 地雷博物館 ボランティア (宇佐美 Vol.2)

アジア





カンボジア 地雷博物館 ボランティア体験記

滞在先

アキラの地雷博物館 (Siem Reap、カンボジア)

期間

2003年11月から2004年3月

カンボジア基本情報


なぜ、私がカンボジアへ行くことになったのか。
思いつきか、それとも何かの縁に引き寄せられてなのか。


1.いざカンボジア

2002年冬。
ある日、突然アンコールワットが見たくなり、ふらふらと旅行社へと向かった。
「何回乗り継ぎでも、どこを経由してもかまわないので、とにかく一番安いカンボジア行きチケット探してください」
気がつくと、カンボジア行きチケットを手にしていた。

親に知れると、面倒くさいことになりそうなので、黙っておこう。

そして、そのまま何となくカンボジアへ。
約2週間の、のんびり気ままな一人旅。
思いつきで訪れたカンボジアではあったが、人、空気、景色…全てがすっかり気に入った。その旅の途中、私は偶然、日本の女性が経営しているという、ある孤児院を見つけた。ちょっと興味があったので、お邪魔させてもらうことに。そこには20数人の子供たちが共同生活を送り、共に勉強していた。子供たちのかわいいことかわいいこと。
アンコールワットも最高だったが、子供たちの元気な笑顔も非常に心に残る旅となった。

2003年秋。
あれから一年が過ぎた。私は再びカンボジアに足を踏み入れたい衝動に駆られた。

よし、行こう。

今回は、昨年とルートを変えて、隣国ベトナムから陸路でのカンボジア入国。バスで国境を越え、カンボジアに入ったとたん、なんだか妙に心が落ち着いた。一年ぶりの風景、自分の故郷でも何でもないのに、とても懐かしい気分になった。

実を言うと、一年前カンボジアを訪れたあのときから、心のどこかに、いつかカンボジアの子供たちのために何かしたい…、そんな気持ちがあった。しかし、今の私にとって、それは現実的ではない気がして、その気持ちを心の奥底にしまい込んでいた。
だが、以前子供たちに出会ったシェムリアップに着いたとたん、一気にしまい込んでいたその気持ちが吹き出してきた。

決めた。私はやっぱりこの国で何かしたい。

翌日、早速行動開始。
昨年お邪魔させて頂いた孤児院、また人伝に聞いた小学校、その他の施設など、いろいろ歩き回ってみた。突然の訪問だったため、責任者に会えない所もあったが、基本的にどこも親切に話を聞いてくださった。
そのうちのひとつのある施設。
「ここでボランティアをさせてくれませんか。私に出来ることは日本語を教えるくらいしかないですけれど…」
私はラッキーだった。
「ああ、最近ちょうどここの子供たちが日本語やりたいやりたい!ってうるさかったんですよ。もし長く滞在できるようでしたらお願いします」そう返ってきた。
この瞬間から、私のカンボジア滞在が決定した。

2003年11月から2004年3月までの約4ヶ月間、私はカンボジアに住むことになった。

<アキラさん>

さて、私はいったいどういう施設にお世話になっていたかというと…。
私が4ヶ月間滞在したのは、「アキラの地雷博物館」。この施設について、簡単に説明しておきたい。

この博物館のご主人はアキー・ラー氏、通称“アキラさん”。日本人っぽい名前だが、カンボジア人である。
アキラさんは、幼いころ両親を殺され、5歳のときから、自分の両親を殺した軍隊によって兵士として育てられ、銃の使い方から、地雷の設置の仕方、爆弾の作り方まで、さまざまな知識を教え込まれた。長く続く内戦、彼は祖国カンボジアに、多くの地雷を埋めたのだった。
時は過ぎ、終戦を迎え、カンボジアにも少しずつ平和が訪れ始めた。しかし、未だ数百万個の地雷は埋まったままであった。終戦を迎えてもなお地雷によって自らの仲間が命を落とし、手足を失っていく・・・自らの過去に対する反省から、アキラさんはディマイナー(deminer)として、自分が埋めた地雷はもちろん、カンボジアに残る地雷除去活動を始めたのだった。そして、自ら撤去した地雷や不発弾を展示し、たった一人で「地雷博物館」を作り、世界の人々に、地雷の恐ろしさ、愚かさを伝えていく活動を始めた。

地雷や不発弾の被害に遭う子供というのは、たいてい農村部の子供。遊び道具がない農村部の子供たちは、畑や森で見つけた地雷や不発弾を好奇心から手にとり、それで遊んだりしてしまう。農村部に住む人々というのは、たいてい極貧層で、学校に通うことのできる子供はほとんどいない。そこで、アキラさんは地雷除去のみならず、地雷の被害に遭った子供たちを引き取り、衣食と教育の面で面倒を見るということも始めたのだった。(アキラさんは、特に素行の悪い子を積極的に引き取っているという)

地雷博物館は、アキラさん自らが撤去した地雷・不発弾の展示と住居を兼ねており、アキラ夫妻、地雷の被害に遭った13~17歳の8人の子供たち、それから数人のボランティアが住んでいる。みんな、それぞれ、足がなかったり、手がなかったり。だけれども、手のつけられないやんちゃ坊主ばかりだ。

*****簡単な人物紹介*****


2.私の住まい

とりあえず、カンボジアに来たものの、どこに住むか全然考えていなかった。アキラさんが、地雷博物館に一緒に住んでいいよと言ってくださった。たしかに、ここに住む子供たちに日本語を教えるわけだから、一緒に住んでいると何かと便利だけれど…。
どうしようか。

「地雷博物館」と立派な名はついているが、実際ここにはちゃんとした建物があるわけではない。柱と屋根と、それから申し訳程度に板が少し張られた地雷展示場。全てアキラさんお手製だ。日本で言うと、“海の家”のような感じだろうか。ちゃんと仕切られた建物や部屋がないので、住む人数が突然増えたりしても何の問題もないわけだ。
「扉もないし、壁もないし、ここに住むとプライバシーとかないんだろうな…」
ちょっと迷っていたとき、後ろから「キーッウキーッ!」という声が聞こえてきた。

猿だ!! そう、地雷博物館ではたくさんのペットを飼っていた。
犬、猫、鶏、ウリ坊、猿…。
猿がいると知り、私はここに住んでみようと思った。犬と猿が本当に仲が悪いのか、知ってみたくなった。

猿がいるというすごく単純な理由で、博物館に居候させてもらうことを決めたのだが、実際自分がどんな生活を送っていくのだろうかということを全く想像していなかった。この日から、私と、アキラファミリーと子供たちとの共同生活が始まった。

<寝床>

一応女子ということで、アキラさん手作りの小さな掘っ立て小屋を寝場所として提供してくれた。カンボジアらしく高床式だ。木の床にゴザを敷いて眠る。暑いから蒲団はいらない。意外に快適だ。
夜、横になって天井を見上げると、無数のヤモリがいる。ヤモリも声を出して鳴くのだということはカンボジアに住んで初めて知ったことだ。毎日見ていると、ヤモリたちもかわいく見えてくるから不思議だ。

子供たちはというと、いつも外で、木にハンモックを引っ掛けて寝ていた。私もときどき台所の床に寝ていた。なぜかと言うと、台所は床と屋根だけで壁が全くないので、寝るとき月が素晴らしくよく見えるからだ。電気ではなく純粋に月の明るさを知ったのもこのときだった。

 そして朝は、鶏の鳴く声、そして昨夜の残り物を狙った大勢の鶏たちがバッサバッサする音で目が覚める。

<川vs井戸>

カンボジアの一般家庭には珍しく、地雷博物館には水道が通っていた。しかし、断水は日常茶飯事。なので、私たちが炊事・洗濯・入浴に使用する主な水は、井戸水か川の水。
子供たちは川の方がお気に入りで、川は子供たちにとって、遊び場であり、釣堀であり、洗濯場であり、お風呂場でもある。遊びついでに体に石鹸を擦り付ければ入浴も完了。私も一度だけ子供たちと一緒に川で入浴したことがあるが、「川には小さい蛇みたいな虫がいて、それがよく咬みついて体の内部に入り込むんだよ」と脅されてから、すっかり川が怖くなった私。その後は井戸水を愛用していた。

<庭はアンコールワット>

私たちが住んでいた場所は、アンコール遺跡まで3kmという素晴らしいロケーション。普通、アンコール遺跡群の1dayチケットを買うと、20$と高めだ。
(ちなみに、カンボジア人はタダ)
しかし、夕方5時を過ぎると、係りの人が帰ってしまうので、勝手に入ることができる。私たちはご飯を持ってちょくちょくアンコールワットへピクニックに出掛けた。
一台のジープに十数人乗り込む。全員がタダになる日暮れ時から出掛けるので、月とアンコールワットという絶景を眺めながらの食事だ。あの風景は今でも目に焼きついている。


3.インチキ日本語教師?

子供たちは、午前か午後のどちらかに外の学校へ通い、そして空いている時間に博物館で、ボランティアによる英語と日本語の授業を受ける。

<日本語とキャンディーの大事な関係>

地雷博物館に、一応日本語の先生として住み始めた私。マニュアルも、教室も、テキストも、何もない。不安だらけの私。
ここにはすでに英語のボランティアの先生、サリーがいた。
授業の時間を調整すべく、何時から教えているのかと聞くと、「When I get boys, I can teach」という答えが。あれこれ考えても仕方ない、そのときの気分で行動する子供たちだから…とのアドバイス。

青空の下での子供たちへの日本語授業は、想像以上に楽しく、また困難だった。子供たちは少しの英単語と、クメール語を知っていた。

いったいどうやって教えよう…?

身振り手振りや絵カードを使ったりして、試行錯誤の日々。
最初は日本語に大いに興味を示してくれたものの、やはり相手は子供。だんだん飽きてきて、授業中脱走し始める。サリーから聞いていた通りだ。
何時からね、と時間を決めても、時間の感覚のない子供たち、すぐ遊びに消えたり、昼寝を始めたり、トイレに隠れたり。
じゃあ今日はもう授業はお休みにしよう…かと思うと、「ヨウコ~!リエンジャポン!!(日本語勉強する!)」と寄ってくる。
なんて気まぐれな子たちだ! いちいち腹を立てていてはもたない。

子供たちへの授業に必要なもの、それは、大きな声、笑顔、忍耐力、絵、飴玉。
集中力が切れて逃げ出した子供には、飴玉をちらつかせればすぐにぴょんぴょんと舞い戻り、嬉しそうに、「コレハキャンディーデスッ!」と言って私の手から飴を奪っていく。

本当に大変な時期もあったが、子供たちの元気さと明るさ(能天気さ?)に大いに励まされる毎日であった。

<僧侶たち>

ひょんなことから、私は毎日お寺で僧侶にも日本語を教えることになった。正直に言うと、最初は面倒くさかった。なぜなら、毎朝、カンボジアの強い日差しの中を自転車で片道約20分かけてお寺まで出向かなければならなかったからだ。

 生徒である10人の僧侶たちは18歳~24歳。
授業終了の時間に現われ、「先生、寝過ごしました…」と目を赤くしながら謝りにくる日もあれば、突然、瞑想や修行に出てしまい、寺に着いたら生徒が誰もいないという日も。

だが、基本的に彼らは皆、驚くほど熱心で素直だった。しかも、非常に呑み込みが早い。一度教えたことは次回には確実に覚えてくる。
毎朝必ず、「センセイ、オハヨウゴザイマス~!!」と最高の笑顔で出迎えてくれた。いつしか、お寺での授業は一日の中での大きな楽しみのひとつとなっていた。最初は月~金で行なっていた授業も、生徒がどうしても土曜日も勉強したいというので、月~土の週6回にしたほどだ。

 熱心な彼らゆえ、こんなこともあった。
「形容詞」を教えたある日、形容詞を使って例文を5つ作ってきなさいと宿題を出した。次の日、自慢気にノートを見せる僧侶たち。
“①ようこはふといです、②ぞうはおおきいです、③とらはつよいです”

え・・・・・

「何ですか!?これは!」
私が大きな声をあげたので生徒たちもびっくり。どうやら、生徒たちは先生を喜ばせたかったようだ。聞くところによると、「ふとい」はカンボジアでは誉め言葉らしい。私にしてみたら、けっこうショックな形容。
生徒たちに「日本人の女性に、絶対に“太い”と言ってはいけません」としっかり教え、「センセイ、ゴメンナサイ」という言葉も覚えてもらった。

最後の最後まで怠けることなく私の授業について来てくれた僧侶たちには、本当に感謝している。


4.ごはん

ここでは、私の生活には欠かせない、「食」に関するエピソードをいくつか紹介したい。

<食物連鎖?>

カンボジアの家は、どこも高床式。
床に並べられた板はそれぞれ3センチずつぐらい隙間がある。食欲旺盛な子供たちは、いつもがっついて一気に食べるので、床に食べ物がどんどん落ちる。また肉を食べるとき、みんなわざと骨を床に落とす。
食後の掃除は簡単、ほうきでガーっと掃いて、その床の隙間から地面へ落とすのだ。そうすると、すぐに床下に鶏と犬と猫が寄ってきてそれを食べる。そして私たちは、その鶏をまた食べる。行儀の悪いことに、私も肉と魚を食べるとき、骨を投げながら食べる癖がついてしまった。
しかし、鶏たちも床から地面に落ちた物ばかりでは満足しない。食事中、一瞬目を離した隙に猫や鶏におかずを奪われたこともあるし、チキンスープの入った大きな鍋の中に、鶏が座ってバッサバサしていたこともある。

<蛙バクテリア>

 あれは、私が博物館に住み始めて初めてのお昼ごはんのときだった。

緊張しながら第一回目の日本語の授業を終え、ほっとしたところに、
「ヨウコ、ゴハンタベル~」
どこで学んだのか、カタコトの日本語で子供たちが台所へと呼んでくれた。お昼は蛙の炒めものだった。蛙がおいしいことは知っていたので、私はたくさん食べた。
…これがいけなかった。

 午後2時。
何か体が変だ。ちょっと横になろう、そう思ったがそれもできない。
吐く、吐く。
とにかく吐きまくる。吐いても吐いてもちっとも楽にならない。私の異変に気づいた周りの人々がバイクで私を病院に運ぼうとしたが、私にはバイクにまたがれる力もなかった。結局、トゥクトゥク(バイクの後ろに荷台がついた乗り物)に乗せられ病院へ。

 カンボジアで初めての病院。
私はこのままどうなってしまうのだろうか…。異国にいて、病で倒れると、身体的のみならず、精神的にけっこうやられるものである。クメール語もわからないし、どんな風習があるのかもよくわからないのだから。
私が運ばれたのは、偶然にも華僑の病院。以前中国にいたことがあるので、先生と最低限の意思疎通はできる。クメール語が全くできない私にとって、体は苦しいけれど、わずかな救いだった。

 その後夜中まで吐き続けたものの、翌朝には何とか回復し、退院。
治療費87ドル。
明らかにぼってる?と思いながらも、日本人だから仕方がない…。

 先生の診断によると、たまたま私が食べた蛙の中だけにバクテリアがいたのでは?とのことだった。

<鹿肉BBQ>

 アキラさんはハンティングのためジャングルに出かけるのが好きだ。一度ジャングルに入ると、獲物をしとめるまでは帰ってこない。

 その日も重そうなリュックを背負ってアキラさんが帰ってきた。リュックの中から出てきたのは鹿! 生の鹿を見るのは奈良公園に行って以来だ。
子供たちは慣れた手つきで鹿の毛をむしり始めた。私も参加。
おぉぉぉ、意外にも毛はスッと抜けるものだ。
むしり残りの毛を火で焼いて、あとは川に持って行って血を洗い流しながら解体。私は解体には参加しなかったが、手がけっこう血生臭くなるようだ。

 さてさて。数時間後、鹿バーベキューが始まった。
カンボジア式鹿バーベキュー。
偶然にも私の鹿初体験は私の誕生日。いい誕生日だ。今までの人生で食べたあらゆる肉のなかで、5本の指に入るほどおいしい。

鹿最高。

<鼠狩り>

 ある夜のこと。
ポイ、トール、アラが「ヨウコ、ネズミネズミ!」と騒いでいる。どうやら今からネズミを捕りに行くという。アキラさんに、「陽子も罠の作り方、勉強してください」と言われたので、ついていくことにした。といっても、博物館の前の野原だ。

 草木をかきわけて道無き道を歩くのはなかなか難しい。片足しかないのに、器用にすばやく歩く子供たち。
待ってくれ。

一つ目のポイント。そこにはポイ手作りの罠があった。
どうやら、子供たちはいつも夜に自分らが仕掛けた罠のところに来て、餌(イモかな?)を補充しにきているようだ。

二つ目のポイント。鼠が一匹引っかかっている。
日本で見かける鼠の二倍くらいの大きさがある。トールが、引っかかっている鼠のシッポをつかみ、バンバンと地面にたたきつける。つまり、とどめを刺すわけだ。
その夜は合計二匹。収穫だ。

 その後の要領は鹿と同じ。
毛をむしって川辺でさばいて、後は塩をまぶして炭火で焼く。鼠は鶏に似た味だった。アポイが私のためにしっぽをとってくれていた。
骨があってコリコリしていた。

<イノシシ鍋>

 あるとき、私が外出から戻ると、アキラさんが、「陽子、ほら」と、自慢気に何やら動物の牙を見せてきた。
大きい…。
そして、ご飯を作るおばちゃんが、にこにこしながら、鍋を指差した。何だろうと鍋を覗くと、そこには大きな大きなイノシシの頭が丸ごと!

 晩御飯の時間。
台所の床には、イノシシのステーキと、そして真ん中にはイノシシの頭。子供らがハンマーで頭蓋骨を叩き割り、肉をほじくる。なんだかカンボジアを感じる晩餐だ。今回のイノシシはちょっと大きめだったので、肉がちょっと硬かった。
それにしても、つくづくアキラさんの狩猟の腕には感心する。

<鶏とありんこソース>

 カンボジア人の友達二人が、チキンを食べに行こうと誘ってきた。暇だったのでなんとなくついていった。
しばらくして、運ばれてきたのは、おいしそうなスープと鶏、それからたっぷりの生野菜!それをソースにつけて食べるのがカンボジア流。カンボジアの伝統的なソースは幾つかあるが、今日のソースはまた格別においしい。私はたくさん食べた。
おいしい生野菜と鶏もなくなりかけた頃、一緒にいたカンボジア人の友達が、私にニヤニヤと笑いかけてきた。
「アリ タベタネ」

えっ・・・!

まさかと思い、私は手元にあるソースをよくよく見た。茶色のアリがいっぱい。それは、アリをすり潰して作ったソースだったのだ。原型を留めているアリもいて、小さいけれど、しっかり目もあることが確認される。
アリを食べてしまったという衝撃にやられながらも、こんな小さいアリにも目がちゃんとついているんだという発見にちょっと感動。
アリ…。
もう食べてしまったからどうしようもない。おいしかったからまあいいや。

<鶏、大海を渡る>

 地雷博物館には多くの鶏を放し飼いにしている。
私がカンボジアに滞在していた時期、アジア各国で鳥インフルエンザが騒がれていたが、まあ地雷博物館ではそんなことは一切関係ない。親鳥が卵を産んで、ひよこが産まれ、またそれが大きくなって親鳥になる。そんなわけで、鶏が絶えることはない。
鶏たちは非常に騒々しい。毎朝4時頃から激しく泣き、バサバサと騒ぎ始める。私は毎日鶏に起こされるようなものである。

ある日のこと、今夜の夕食はチキンスープにしようということになり、アキラさんが子供たちに鶏を一匹絞めろと命じた。早速子供たちは鶏を追いかける。
ところが今日の鶏は、大人しく捕まってはくれなかった。殺気を感じた鶏は逃げる逃げる。私たちの住んでいるところは、川に面しているのだが、なんと鶏が川を泳いで逃げ始めたのだった。
川を渡りきって、向こう岸でほっと一安心の鶏。しかし、子供たちは任務を遂行しなければならないのだ。子供らも川に板を浮かべて河を渡り、再び激しい鬼ごっこが始まった。

10分後、鶏をしとめ誇らしげに台所に戻ってきたのはやっぱりポイ。
鶏を絞めるのはポイの得意仕事。片手に包丁を持ち、鶏に向かって満面の笑み浮かべ、「ケ~ッケッケッ」大きな声で笑いながら頚動脈をブスッ。

筋肉質でちょっと硬めの肉だった。

<ホビロン事件>

ある日のこと、親鳥が卵を5つ産んだ。そろそろ孵りそうな気配だ。
私はひよこが殻を破る瞬間に立ち会うべく、その5つの卵をじっと見守っていた。ところが、私が少しの間そこを離れ、再び卵の側に戻ってきたとき…。
あれ?卵が1個になっている…。猫か?犬か?それとも誰かが他の安全な場所に移動させたのかな?
アキラさんの奥さんに卵はどこかと尋ねると、台所を指差した。そういえば、さっき台所で、誰かが卵をゆでていたような。
・・・まさか!
台所に慌てて向かい、まさに食べられんとしているゆで卵を見ると、それはついさっきまで私が見守っていた孵化直前の卵たち。

カンボジアを始めアジア各国では孵化直前の卵は“ホビロン”と呼ばれ、非常に栄養価の高い食べ物として重宝されている。特に風邪を引いたときに食べるそうだ。
「その卵、食べちゃうの~!?」と騒ぐ私。
「はっはっは。うまいよ。ヨウコも食うかい?」

<ヘビ>

 昼下がり。
いつものように子供たちが川で遊んでいる。
アポイがボートに立って、片手を掲げ、こちらに向かって微笑んだ。今日の彼は何だか誇らしげ、気分はすっかりトム・ソーヤ。
お…?
手に蛇を持っている。そうか、今日は収穫があったのか。

 台所に来て、本日の獲物を早速調理。フライパンで炒める。
「ヨウコ、ニャムニャム!(食べて食べて!)」
アポイが私のために一番美味しい卵の部分をくれた。お腹壊すだろうか…、でもせっかくアポイがくれたのに。

蛇の卵は微妙な味でした。


5.ここはカンボジア

<伝統医療>

 胃が痛い。

その日は明け方から胃の調子がよくなかった。以前の蛙のときほどではないが、吐き気もある。横になっていると、私の異変に気づいたあるカンボジア人が看病にきてくれた。
しかし、彼らの口からは意外な言葉が次々と…
「陽子、寝ていてはだめ。外に出て歩き回りなさい」
「オレンジに塩と唐辛子をすり潰した粉末をつけて食べなさい」
「さあ、水浴びをしてきなさい」
私はしんどいから歩けない、水浴びをする元気もない、吐きそうだから何も口に出来ないというのに…!
そして、次にはカンボジアンマッサージを施され、仕上げに背中に“タイガーバーム”を塗られた。カンボジア人はいつもこうやって病気を治すという。

ちょうどその時期、私は卒論研究で伝統医療について調べており、その中で、「伝統社会の中に近代的医学が介入したとき、それはその文化や風習に大きな混乱を引き起こし、人々はそれに近づこうとはしない…」などと書いた私だったが、今回はその逆である。
近代医療の中でぬくぬくと育った私は、彼らの治療法に大いに戸惑った。しかしながら、彼らの思い遣りと心意気は十分に感じ、深く感謝した。

<自転車屋のペルさん>

 カンボジアでは、自家用車を持っている人はほとんどいないので、移動手段といえばやっぱりバイクが主流だ。
しかし、私はバイクに乗れないため、自転車を購入することにした。
町の市場に行くと、たくさんの中古自転車が。しかし、よく見ると…。

生駒市? 埼玉県警? 千葉市?

日本語のシールがついた自転車がたくさん。中には、「○○市○○、tel・・・ ○本○子」という自転車までも!
盗品か?それともどこかの輸入業者がはるばるカンボジアまで運んできたのか?しかし、私にとっては、ちゃんとした自転車が手に入りさえすればどうでもいい。
私は埼玉県警かなんかのシールがついた中古自転車を購入。これで行動範囲がぐっと広るわ!と喜んでいた。
しかしそれもつかの間。
街から博物館までは、道路が全然舗装されておらず、砂利や尖った石がごろごろしている。そんな道を毎日乗っていれば、当然パンクが起こる。だいたい2週間に一回のペース。直しても直してもキリがない。

でも、私には強力な味方がいる。ペルだ。
ペルは太ももから下がない。天然ボケのシャイな17歳。彼は足がない代わりに、ものすごく手先が器用だ。いつもいつも私の自転車のパンク修理、チューブ交換、何でもやってくれた。私がパンクしたと告げるといつも、「んーんー!ケーオー、ケーオー!!」と笑顔で答えてくれる。(OKだと言いたいらしい・・・)
ペルの自転車修理に限らず、子供らの手先の器用さにはいつもいつも驚かされてばかり。頼もしい限りである。

子供たちは、皆13歳以上の年齢だが、アキラさんに引き取られて初めて学校に通い始めているので、自分よりずっと下の年齢の子供たちにまじって勉強している。それぞれが、教師になりたい、医者になりたい、ガイドになりたい、などさまざまな夢を語る。普段は元気過ぎて、手足がないこと私たちに感じさせない彼らだが、将来、このハンディキャップは想像以上に彼らを困らせるのだろう。健常者でさえまともな職に就けないこの国で、彼らの将来はどうなるのだろうか…。
ペルの頼もしい背中を見ながら、いつもそんなことを思った。

<ロウソクの光の下で>

 子供たちの中でもちょっとお兄さんのペルとダー。
いつも遊んでばかりの他の子供たちの中、この二人はいつも家事のお手伝いをする。とりわけダーは赤ん坊の世話が得意だ。
アキラさんの一歳の息子、アマタはダーによくなついている。お手伝いをするおりこうさんのペルとダーであるがゆえ、彼らは昼間はなかなか勉強の時間が取れなかった。
そんなわけで、彼ら二人はよく夜に日本語を勉強したがった。
しかし、十分な電気がない私たちの家。よって、ロウソクの光の下で勉強するしかなかった。ロウソクをつけて彼らと勉強して、なんだか「日本昔話」の中にいるみたいで楽しいな…などと私は心の中で思っていた。

ある夜のこと、すでに9時を回り、子供たちが寝出した頃、ふと建物の陰を見ると、ダーの姿が見えた。
ダーは右手の肘から下がない。ダーはロウソクをつけ、左手に鉛筆を持って、数学の勉強をし、半分しかない右手で赤ん坊をあやしている。
田舎町出身のダーは10歳の頃、森で薪を探しているときに、地雷の被害に遭ったのだが、その後は他の家にお手伝いとして働きに出ていた経験を持つ。学校へ行くお金が必要だったのだ。
ダーは勉強が大好きな子である。現在はこの地雷博物館に引き取られ、学校にも通うことが可能になっているし、食べる物もある。
アキラさんに引き取られた後、わがままになりがちな子供もいるが、ダーはアキラさんへの感謝の気持ちから、今でも赤ん坊の世話やご飯の用意を積極的に行なう。

その夜、ダーの姿を見て、愕然とした。
私にとっては、昔話のような非日常の“ロウソクの光での勉強”であるが、ダーにとってはそれが変えようのない目の前にある“現実”であることを思い知った。


あとがき

カンボジア。

この国は悲しい歴史によって、多くの人々が貧困に苦しみ、戦争が終わった今でもなお600万個の地雷が人々を苦しめ続ける。
私はひょんなことから、シェムリアップのある田舎で、地雷の被害に遭い手足を失った子供たち8人と、約4ヶ月間、生活を共にさせてもらうことになった。

「国際協力、開発援助」

この言葉に長年憧れていた。何をしたいのか、自分に何ができるのか、それを明確に掲げていない、今思えば中途半端で迷惑な日本人だったかもしれない。この国のために何かしてあげたい、ただ強くそう思っていた。しかし、それは誤った考えだった。
私は、毎日子供たちに日本語を教えていたため、彼らは私を“先生”と呼ぶ。しかし、実際には子供たちから教わっていることの方がずっと多い。
子供たちは皆、食べる物がなければ、野原やジャングルに出かけ、木の枝や葉っぱで罠を作り、鼠だって蛇だってクモだって何だって捕まえてくる。物が壊れれば、自分で器用に何だって修理できるし、おもちゃがなければ自分で何だって作れる。
情報の溢れている日本において、人々はあらゆる知識を吸収することができる。ここの子供たちは貧しさゆえ、少し前まで学校に通うことができず、十分に読み書きもできないし、さまざまな知識にも乏しい。
彼らの全ての部分を肯定するわけではない。礼儀を知らず、物事の分別がない子もいる。しかしながら、物がない彼らは、常に“知恵を絞る”ことを知っている。子供たちのその姿勢に、そのたくましさに、私は毎日元気を与えられる。
現地の方々の生の生活に入り込み、さまざまなものを見たとしても、彼らにとってはそれは“日常”であり、一方、私にとっては”非日常“であり、一時の”貴重な経験“にしかなり得ない。そんな私がボランティアだなんて、思い上がりかもしれない。自分でそう思いながらも、私は、ただそこにいたいから、彼らと一緒にいたいから、彼らの“日常”に入れてもらった。
子供たちと共に暮らした日々。
国際協力、開発援助とかいうそんな次元を超えて、人間として生きているということを実感できる毎日であった。
今でこそ底抜けに明るい子供たちだが、地雷の事故にあった当初は、生きることに絶望し、よく涙を流していたという。

ダー、ペル、トール、ポーイ、アラ、ポイ、スレイ、ハック。
いつも私に力強い生き様を示してくれ、そして生きていることを実感させてくれるこの8人の子供たちに深く感謝したい。

2004年1月 シェムリアップにて


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