米国 オハイオ州立大学 交換留学 (五野井 新着2014)
経済学部経営学科4年 五野井りほ
参加先
大学間協定 交換留学
二段階留学
第一段階 米国 オハイオ州立大学 交換留学
期間
2014年8月〜2015年5月
参加動機
費用
1週間のスケジュール
受講していたクラス
参加動機
オハイオ州立大学に交換留学を志望していた理由は大別して3つあった。
① 専門分野の経済・経営について、高レベルかつより専門的な内容を受けたかった。オハイオ州立大学は世界大学ランキングでもレベルが高く、特にFisher Collegeとよばれるビジネスカレッジが大変有名であった。
② 北大で学べない内容を学ぶこと。専門分野だけでなく、興味のあった国際関係学等において、オハイオ州立大学は大変ユニークな授業を展開している。大学2年時に、日本代表団として日中韓ユースフォーラムという国際会議に参加した際に興味をもった模擬国連(Model United Nations)も、授業として開講されていることが魅力的だった。
③ 多種多様な学生と共に学生生活を送ること。将来的に日本と世界の架け橋になりたい私にとって、世界中の学生たちと学生生活をともにし、また自身がその世界に飛び込むことで、日本とのギャップを見つけたいと考えていた。
キャンパスとその周辺の環境について
オハイオ州立大学のあったオハイオ州・コロンバスは、電車も地下鉄もなく、日用食料品は徒歩圏内にあったものの、ショッピングモールへも車を持っている友達に連れて行ってもらわなければならないような田舎だった。その中にとてつもない面積でそびえたっているのが、オハイオ州立大学である。学生数は約65000人、専門の数は200以上、11階建てのショッピングモールみたいな素晴らしい図書館、ムキムキになるには最適すぎる立派なジムなどがある。フットボール(アメフト)が有名で、毎年シーズンになると、総勢20000人の観客を収容できるオハイオスタジアム(キャンパス内にある、Figure 1)は、オハイオ色の服やグッズを身に着けた生徒やサポーターで埋まってしまう。なんと、私がいた2014年は、全米1位のNational Championの座を数年ぶりに奪還し、街中が盛り上がり(=super crazyになり)、歴史的瞬間に立ち会うことができた。
生活について
まずコロンバスに着いて4日間は、ホストファミリーと一緒に過ごすことにした。というのも、彼らがエアポートまでピックアップに来てくれたり、初めての長期(?)留学生活を左右する初期設定する期間に、ホストファミリーと住むことは有益だと考えたからである(精神的にも…)。彼らは大変親切にしてくれて、4日間が終わった後もタッチし続け、thanks givingやクリスマス、そして交換留学を終えて日本に帰る際も、自宅でディナーを一緒に食べたりしていて、本当にアメリカのお父さん・お母さんのように感じていた。
渡米後に彼らと4日間住んだあとは、off campusのアパートで2人のハウスメイトと暮らしていた。2人とも英語ネイティブ話者かつ日本語を勉強していたため、お互いのレポートを添削しあったりと、また日本食料理屋さんに連れて行ってくれたりしてくれた。
渡米後ちょうど1か月後に迎えた21歳の誕生日の時には、友達がバースデーパーティを企画してくれたり(Figure2)、ルームメイトは動物園に連れて行ってくれてサプライズメッセージをくれたり(Figure3)、また友達とディナーに行ってホールケーキをサプライズされるなど、忘れられないものとなった。
日常生活としては、月曜日から木曜日は授業のあとに図書館直行し課題に取り組む、金曜日はパーティ、土曜日と日曜日はお出かけ、そして日曜日の夜には現実に引き戻されて課題に立ち向かう、という1週間のサイクルであった。どうしてこのようなサイクルを送ることになったのかは、次の項目で述べる。とりあえずここでは、金曜日の授業後の解放感はものすごく言葉に表せられないほどのものであったと述べるにとどめておく。まさにTGIFである。
授業
授業は、日本の大学教育システムとはちがった。具体的に違う点は大きく3点ある。
① GPA大切
② 宿題・課題の山
③ 授業はディスカッションがメイン
まず、日本では “就活に関係ないし…”と、GPAを気にしない生徒が正直多い印象だが、アメリカでは正反対。GPAが就活に直結するからか、学生の勉強への士気がちがう印象だった(①)。「成績のC以下(日本での良以下)は、GPAに響くから、実質的にfail(不可)と同じ」と、どの学生も言っていて、GPA=4(オールA(秀))の友達も何人かいた。
ただし、Aを取るのが簡単というわけでは全くない。むしろ日本よりも100倍大変だった(②)。宿題や課題は毎回あり、その量も尋常じゃない。Web test, paperを終わらせたうえで、次回の授業のためのリーディングを授業ごとに60ページ、などは普通に課されていた。
そして授業は聞いているだけの受動的なものではなく、ディスカッション・プレゼンがメインの能動的なもの(③)であった。教師と生徒が同じ(というか生徒の方が多い?)くらい発言していた。成績評価も授業参加の占める割合が大きいことが多く、GPAにも直結していた。
このような授業システムだったため、授業前の朝、授業の間のブレイク・授業後には図書館に行き、勉強することがごく当たり前であった。特に英語のギャップや、また現地の学生にとってgeneralな内容しか知らなかった私にとっては、彼ら以上に勉強しないと追いつけなかったため、図書館にこもることが日常だった(でもスケジュールを見てわかる通り、遊ぶときは遊んでいましたよ!)。
サークル
多種多様にあるサークルの中で、私は、人種・性・ジェンダー・宗教などの差別問題などを通して、いかに人々の間の対話を増やすか、またいかに人と人をつなげていくか、などのディスカッションをするサークルに入った(Figure4)。日本人同士でかたまらない、現地の学生と一緒に何かをしたい、そして彼らと仲良くなりたかったという理由で、彼らのやっている内容などは全く見ずに加入したが(英語を話す機会を少しでも作れる、くらい?)、実際にメンバーは本当に親切で、私のつたない英語でも、親身にディスカッションの一つの内容として受け止めてくれて(メンバーはネイティブ英語話者が半分以上なのに)、イベントなども誘ってくれたりして、人の温かさ・つながりを感じた。また、日程的にも雰囲気的にもきつくなかったので(休みたいときは休める等)、勉強にも相当力を入れていた私にとっては、テストや課題に追われているときは正直に休めることがありがたかった。活動外でも、そのサークルのメンバーみんなで土日も一緒に出掛けたり、ホームパーティをしたり、バースデーパーティをしたり、映画を見に行ったりして、別れの時は本当に惜しかった。
その他、深くコミットメントしていなくとも、さまざまなサークルのイベントやパフォーマンスなどには多く参加していた。友達の友達とそのイベントを通して友達になれ、そこで友達の輪が広がっていったため、勉強に支障にならない程度に(例えなりそうでも、その後の勉強で取り戻せる範囲)には参加していた。
食事
外食:炊事=9:1だった。ほぼ外食していた(体に悪いですね>_<)。というのも、家では全く勉強の集中力が続かない私は、図書館の合間に友達と外食して、その後図書館に戻ってくる、という生活パターンだった。また、自炊をするより友達とご飯を食べるほうが、英語を話す機会にもなるし、友人のネットワークが広がるし(友達が友達を連れてくる)、なによりも彼らからさまざまな情報を聞ける最大のチャンスだった。幸い、図書館の一階にはカフェテリアがあり、図書館内も飲食可能だったため、ご飯をたべるための移動に時間をかける必要がなく、大変便利だった。
コロンバス、特にオハイオ州立大学周辺は学生が大量にいるため、さまざまな種類のレストランが林立していた。しかし、人口割合的に文句を言えないのはわかっているが、中国料理屋さんの数に比べて、日本料理屋さんは数えるほどしかなく(オハイオは日本人が比較的少ない)、しかも遠い・高い・おいしくない、という残念な結果だった。中国料理屋さんはどこにでもあり、気分に合わせていくお店をチョイスできるほどたくさんあるし、リーズナブルだったので、よく利用していた。
その他イベントなどがあるときには、よくfree foodが提供されていた。が、その場合はよくピザで、今まで人生で食べたピザの10倍くらいをこの留学期間に食べた、というくらいである。正直しばらくはもうピザは遠慮したい。
課外活動
・API Leadership Summit (年2回、両方参加)
・Harvard Project for Asia and International Relations (学生会議)
・キャンパス アルバイト
・Buck-I-SERV ボランティア
・Maltin Luther King Jr. ボランティア
・JASCO ボランティア
・JSO-RAN
・留学生特別枠での就活面接
この体験記から、いかに勉強に力を注いでいたかがうかがえると思うが、留学生活を勉強だけで終わらせるのも悔しい。ということで、私なりに上記のような課外アクティビティに参加した。いくつか紹介する。
1つ目のAPIは、OSU構内で開催された、リーダーシップを磨くためのサミットである(Figure5)。参加者の9割(というか私以外は?)はネイティブ英語話者で、彼らのブレインストーミングやプレゼン、そしてファシリテーション能力には圧巻だった。彼らと並んでディスカッションやプレゼン、そしてネットワーキングをすることが少々申し訳なるレベルだったが、参加できてよかった。
2つ目のHPAIRは、年2回開催されるハーバード大学(の学生団体?)主催600人規模の会議である(Figure6)。大学生が参加するべきカンファレンスの世界トップ3位らしい(基準がよくわからないが)。たまたま回によって開催地が異なるが、たまたまオハイオ留学中にハーバード大学で開催されるものがあったため、参加した。こちらは全日程4日間ほどあり、その間の滞在はハーバード大学生の寮に、彼らとともに居候させてもらった。スピーカーやパネリストも各界の面々たる方々で、かつ参加者も世界各国からとても頭の切れる学生たちが集まり、その時に受けた刺激は想像を超えるものであった。またネットワーキングの時間が多くあり、将来に向けたビジネスパートナー等を探している人もいた(ちなみにこの時、「どこの大学ですか?」と聞かれて「北海道大学です」と言うとわからないことが多かったため、「オハイオ州立大学です」と名乗っていたことは内緒である。)
4つ目のBuck-I-SERVボランティアは、オハイオ州立大学によって企画されている公式ボランティアで、基本的に10日間、参加を希望する学生がアメリカ各地・海外にグループでボランティアに赴くというものである。私が希望したものは、「貧困」をテーマとしていたもので、低所得層への物品配給の手伝い、荒れた街の清掃、学校へ赴き清掃・掲示物の取り換えの手伝い、子供たちと遊ぶ、勉強を教える、子供たちのための公園遊具のペンキ塗り直し、などであった。オハイオ州立大学の周りにもホームレスがいたりしたことによる興味からこのボランティアに参加し、そして現実の深刻さを目の当たりにした(感想がざっくりでごめんなさい)。
他の項目について知りたい方は、お気軽にご連絡ください。
苦労話
ここまでだと、一見、順風満帆な留学生活を送っていたように見えるかもしれないが、苦労の連続だった(正直7割くらいは苦労)。ここではその一部を紹介する。
① 銀行口座を開けない
まず、現地での現金調達手段を確保しなければ、数か月で家賃滞納等でホームレスになることがわかっていたため、新学期が始まる前に銀行口座を開設しなければならなかった(日本円をアメリカドルで引き出せる新生銀行を開設してから渡米したが、授業料支払の際の手数料等の関係から、現地銀行の開設がベターだった)。
ここでネックとなったのが、英語力である。友達とのおしゃべりについてはそれほど問題なかったのだが、銀行開設となると、使われている単語が専門的で、”deposit”と”Credit”と”Debit”くらいしか知らなかった私の語彙力と拙いリスニング力では、厳しかった(もう8割くらい涙目だった)。そして銀行はwifiを持っていなく、単語を調べることもできず、「アメリカ=危険国=詐欺・犯罪」というイメージを持っていたため、留学3日目にしてぼったくられることを覚悟した。なんとか友達の助けを借りながら、銀行口座の開設に成功した私であったが、迎えに来てくれたホストファザーの前でその一部始終を話していると、またもや泣きそうになった(安堵感…)。まので、これから留学に行かれる方は、やはり友達と行くことをお勧めします。
② 授業の恐怖
米国大学の授業は、今まで日本で受けていたものとは全く異なっていた。日本の大学では、教授が話し、学生はいつもノートを取ってテストを受ける、というのが通例で、言ってしまえば一方通行の講義となっている。しかしその“常識”が通用しなく、ディスカッションが毎回ある、というかディスカッションから授業が成り立っている、というものも多かった。予習はもちろんのこと、それに対する自分の意見を持っていて当たり前で、それをクラスで発言・シェアしなければならなかった(だから、シラバスのClass Participationの割合がいつも高く、GPAにひどく響く)。個人的には、何かの話題・問題に対する様々な意見を知ることが好きだったので、このような方式のクラスは進んで受けていたが、なにせよ生まれてこの方21年間、このような方式のクラスとは対照的な、THE・日本式教育的に育ってきた私にとっては、簡単なものではなかった(そして現地のディスカッションのスピードの速いこと…ただでさえリスニングが苦手でネイティブのおしゃべりにもスピード感を感じていたのに、彼らが白熱して議論した時のスピード感といったら…)。実は授業中に1度、悔しくて泣いたことがある。>_< でも、もともと根本的に負けず嫌いだったこともあり、今までの授業の予習の時間に加え、ディスカッションへの入念な入念な準備と、ディスカッション本番での緊張のあまり出る震え声とも闘いながら、乗り越えていた。それらの成果も出たのか、留学後半は意見を言うことへの抵抗感などはなくなっていたが、最初のほうは授業自体へ行くことへ恐怖(?)を感じていた。
③ 帰宅の恐怖
この通り、毎日授業に200%で全力投球して(じゃないとディスカッションなども思うようにできなかった…)、授業のあとは宿題と予習のために図書館にこもり、友達とディナーを食べた後にも、終バスの時間帯まで図書館にこもる、という生活をしていた。私の悪い癖なのだが、何かに没頭すると時間を忘れてしまうため、課題に忙殺されているときは終バスを逃すことも度々あった。その場合歩いて家に帰るのだが、図書館から家への道のりには、よくホームレスが座っていたため、「毎日くたびれているのに、家に帰るのが怖い」というジレンマに陥っていた(やはり何か月もいると、対応の仕方も学んでくるのだが、やはりちょっと怖かった…)。
④ 見知らぬ土地で迷子
Bostonで行われたHPAIR(前述参照)に参加して、飛行機でコロンバスへ戻ってきたときのことである。コロンバスはなかなかな田舎で、列車も地下鉄もないため、空港から家に戻ってくるためには、タクシーorバスor運転できる友達に頼む、の3択であった。実はこの帰りのフライトが、ボストンの大大大雪のおかげで前日に飛行機がキャンセルになり、その次の日の振替便においてもかなりの遅延があったりなどで、友達に迎えに来てもらうことはできなかったため、コストのかからないバスで帰宅することにした(はずだった)。バスだと乗り換え2回だが、携帯の充電が切れそうだったので、すべての道順を紙に書き写すことに成功。いざ一つ目の乗り換えをするぞ、という時に事件は起きた。降りるバス停は完璧だったものの、次のバス停がどこかわからなかったのだ。あたりは吹雪、歩道のない原っぱ(雪原)で、「どうしてこんなところにバス停を作るのか」という行き場のない怒りと疑問を抱きながら、ここでのたれ死ぬorいちかばちか1/360°方向を決めて歩いてみるのかの選択を迫られ、私は後者を選んだ。15分くらい吹雪の中を進んでいくと、幸い何かの屋根が見えたので、とりあえず温まるために入らせてもらった。そこは児童向けの保健センターのようなところだったのだが、しかし不運にもwifiを持っておらず、切れた携帯を充電させてもらうも、役立たずであった。そこで訪れていた親御さんに片っ端から道を尋ね、ついに知っている方に出会い、帰還することに成功したのだ!バスを使って計1時間程度で着く予定が、結果4,5時間かかった(ちなみにタクシーだと15分…笑)。今思うと、人生最大の危機だったのでないかと時々感じる。
このように、これまで味わったことのない種の苦労を、数えきれないほど経験した。ただ、これらのような苦労も、その時点では実は”苦労”と認識していなく、いざ帰国して振り返ってみるとなかなか大変だったなと思う程度である。その意味では、苦労自体も楽しんで過ごしていたので、乗り切れたのかもしれない。今となってはいい思い出である。
留学を終えてみると、苦労・つらさ・忙しさ、すべてを楽しんでいた自分がいる。自分のコンフォートゾーンを飛び出して、今まで生きてきた心地よい空間にいるのではなく、さまざまな分野に飛び出していくことを意識していた。それによっていかに自分の視野の狭さをいつも痛感させられ、自分・日本を外から客観的に見ることができた。この留学生活は、正直、良い方をすれば「アクティブ」、言い方を変えれば「いろいろ詰め込みすぎ」だったと思う。が、それによって得られた経験はどれもかけがえのないものであった。
これから留学に行く人、そして留学を考えている人に
もし一言あるとすれば、事実をひとつ:留学はつらい。ただし、それを乗り越えたあとに得られたものは、その人にしかない糧になる。これだけのつらい・きついことがあるとしても、そこへ飛び込んでいきたいというのであれば、全力で応援します。
いつでも気軽に連絡ください。