米国 シアトル・ニューヨーク 語学留学 (山野 新着2015)

アメリカ・オセアニア

経済学部経営学科 山野賢

留学先

EFシアトル校・EFニューヨーク校

期間

2015年4月~2016年2月(約10ヶ月)

留学の種類

私費留学

費用

留学までの流れ

1 留学の動機

一橋大学を第一志望とし猛勉強していた最後の高校生活一年。すべては順調に思えたが、センター試験本番大失敗をしてしまい、塾の講師や学校の先生に受験することを猛反対された。「その点数だと間違いなく足切りになる」、そう言われたことで、志望大学を変更して北大総合文系学部に願書提出をした。結果的には学校や塾の成績のために見事北大合格をもぎ取ったが、私はどうしても一橋大学に行く夢を捨てきれず、一年間の浪人を決意した。そのことを父親に相談すると、「他に一年間の使い道があるのではないか、北大もいい大学だからそう簡単に捨てるな」と言われ、最終的に北大入学を決意し、一年間の浪人生活よりも価値のある一年間の使い道を考えるようになった。そこで、まず一つ目の転機が訪れた。
それは、2014 年 4 月、バイト代と奨学金を利用して一か月間ポートランド州立大学(PSU) に短期留学に行った事である。これを契機として、海外に対する興味や、英語を学び、英語でコミュニケーションをとる事に楽しさを見出した。
二つ目は、2014 年 8 月、高校時代からの友人と一緒に、京都にあるアクセスという NGO 団体が企画しているフィリピンスタディーツアーというプログラムに申し込み、約二週間フィリピン人と交流し、様々なフィリピンの事情について学んだことである。悪臭漂うスラム街で無邪気にはしゃぐ子ども達、スモーキーマウンテンでのゴミ拾いを生業としている人たち、たくさい漁や地主制度などの搾取制度が根強い村社会など、様々な問題を目の当たりにし、自分の知識不足を痛感した。一つ知れば十個知らないことが出てくる、そんな感覚に陥った。同時に、国際社会に目を向けている自分に気が付き、もっと世界を知りたいと思えるようになった。
そして、私は英語を勉強したい、様々な人と交流していろいろなことを知り、国際関係を学びたいと思い、一年間海外に行くことを決意した。

2 準備段階

留学先を選んだ基準であるが、英語を勉強したかったので留学先の国をアメリカにした。そして、英語の勉強面では、様々な語学学校がある中、大学構内に設備のある EF シアトル校が適しているのではないかと考えた。そして、様々な人と交流し、国際関係を学びたいと考えたときに年齢と国籍が多様である必要があり、東西ヨーロッパ、中東、アフリカ、ロシア、アジア全般から人が集まり、国際色の強い EF ニューヨーク校に選択した。
そして 2014 年 11 月、本格的に留学準備に取り掛かった。私が当時アルバイトとして働いていたところは、外国人客の割合が高く、英語を使う機会が多かったため、英語での日常会話は過不足なくできていた。しかし、より良いスタートダッシュを切るために、映画や音楽を中心とした英語学習を出発前日まで継続していた。
荷造りの段階であるが、私はコンタクトレンズを日頃から使用していたので自分に合うコンタクトレンズを 10 か月分、さらに洗浄液を 10 か月分スーツケースに詰めた。その結果、大きめのスーツケース約半分のスペースをコンタクトレンズのために使用してしまったので、服や雑貨に充てるスペースがなくなってしまった。さらに、一本 350ml ほどの洗浄液を 12 本持って行ったので、とてつもなく重たかったのが失敗である。アドバイスとしては、もしコンタクトレンズを着用している方で長期留学に行くのであれば、留学先で眼鏡を頻繁に使うなど、何かしらの工夫が必要である。

3 シアトルでの生活

シアトルでは、アメリカ人の家庭にホームステイをした。家族構成は、母親Chris、娘Briana、二匹の Dog、三匹の Cat、二匹の Turtle、三匹の Rabbit、約三羽の Chicken、そして中国人のルームメイト。まるで動物園のような家だった。家の中は常に動物臭かったが、それを差し引いても彼らは優しくてとても居心地のいい家庭だった。
中国人のルームメイトはアメリカのコミュニティカレッジに行っていて、達者な英語と気前の良さが特徴的だった。深夜までたわいのない会話をして盛り上がったのが今でも印象的である。
そして、15歳アメリカ人女性Tiffany(仮)との出会いも自分にとってはすごく重要である。彼女は私のホームステイ先の隣の家の住人だった。コミュニティー内での交流が盛んであったので、近所の住人を集めてディナーを共に食べ、さらにホームパーティーなどを頻繁に行っていて、それらを通して彼女とは仲良くなった。一緒に映画を観たり、ゲームをしたり、SNS や Skype での交流などを通して、アメリカ文化に馴染むことができたし、なにより若者が使うネイティブ英語を学ぶことが出来た。さらに、言語や文化が全く異なる人たちと同じ空間を共有し、一緒に楽しむことが私にとって非常に新鮮であった。
このように、ホームステイ先での生活は留学生活の中でもとても貴重で、英語力(特にリスニングとスピーキング)をより伸ばすことができ、さらにアメリカ文化に馴染む事ができた。
ホームステイは留学生活の醍醐味である。私の最初のホームステイ先は、フィリピン人からの移民の老夫婦の家庭だった。彼らはとても優しくて、気を使ってくれていたのでそれなりに満足していた。しかし、学校からの距離がある、ルームメイトが日本人、彼らの英語があまり上手ではない、などの理由を元に、より刺激的な方へと主体的に変えていった結果、上記に述べたような楽しいホームステイ生活を謳歌することが出来た。よって、ホームステイを選ぶ際、アグレッシブさや自分が求めているものとマッチしているかが重要となる。

学校での英語のクラスは、(初級)←A1,A2,B1,B2,C1,C2→(上級)ごとに分割されており、英語の筆記試験とスピーキングテストに基づき、B2 からスタートし、日本人は数人いた。レベルとしては中の上くらいで、つらい受験勉強を経験していた私にとって、授業内容はさほど難しいものではなかった。しかし、授業中何度もディスカッションをする機会があり、その度に伝えたいことをなかなか伝えられないもどかしさを感じ、ヨーロッパやラテンアメリカ出身の人たちと比べると日本人は全体的に発言量が少なく、改めてディスカッション力のなさを痛感した。
また、学校は一年間を 4 学期制に分割しているので、学期ごとの間を利用してロサンゼルス、ラスベガス、ポートランド、バンクーバーに学校で出会った友達と共に旅行した。
国籍も文化も異なる人たちと一緒に旅行に行くと、トラブルや対立は当然不可避である。我々の場合、予定を組む際に何度も対立をした。交通手段、行きたい場所、食べたい物など、すべてにおいて意見が異なり、幾度となくもめたが、その度に納得できるまで話し合いをした。時には対立することがあるが、日本人だからと言って遠慮せずに、まずは話し合いをしてお互いの考えを共有することが重要である。

4 ニューヨークでの生活

9月下旬、EF シアトル校を無事に卒業し、EF ニューヨーク校へと移動した。生徒の過半数は、青い目が特徴のブロンドヘアーが似合うヨーロッパ人が占めていた。私は、心機一転して寮での生活を希望し、その結果ルームメイトはオランダ人とドイツ人だった。私たち日本人からしてみればなぜ英語を勉強しに来たのか意味不明なくらい英語が上手かった。初めのころは新しい生活に不安もあったが、年齢が近くて共通の話題も多く、週に2、3回筋トレをして共に汗を流し、共に夕食を食べるなどを通して、徐々に彼らのルームメイトでいることが誇らしくなっていった。ここで一つ付け加えると、私は彼らと何となく筋トレをしていたのではなく、本気で筋トレをしていた。ベンチプレスをする際、声が漏れるくらい自身を痛めつけたし、かつての野球バカだったころと同じくらいの筋トレバカだったといっても過言ではない。その結果、一か月の間に約7キロの増量に成功した。
好きな音楽を聴いて、ひたすら筋肉に負荷をかける。これほど心地よくて、何も考えずにただ一つの事に集中できる時間はない。私に筋トレを教えてくれた彼らには非常に感謝している。

学校では、国連の概要やアフリカについての問題を扱った授業を選択科目として取った。その他はテキストに基づいた英語学習であり、文法や語彙や読み書きのスキルを強化した。クラスは上級レベルに配属したので、日本人は一人もいなく、大半はヨーロッパ出身で占めていて、とても刺激的な環境だった。よくクラスメイトの人たちと街へ行って酒を片手に語り合ったり、クラブに行って音楽を聴きながらお互いの波長を合わせたり、セキュリティーの隙を突いてルームパーティーをしたり、さらにそれがばれて罰金 40 ドルとゴミ拾いをさせられたり、といった事がとても印象的である。

さらに、10月以降の一大イベントとしては、 Halloween と Thanks Giving Day がある。Halloween では仲の良い人たちと共に仮装してマンハッタンに行き、Halloween 独特の雰囲気を味わった。パレードに参加したかったのだが、あまりの人の多さに参加することが出来ず、改めてマンハッタンの脅威を物語る瞬間でもあった。Thanks Giving Day では、その中でも選りすぐりの個性が強いメンバー10人で市内のハーレム(黒人街)にアパートを三日間レンタルして共に過ごした。ハーレムはホームレスや物乞いが多く、さらに街灯が少ないことから、マンハッタン市内でもあまり治安は良くない。夜に外へ出かけることはあまりお勧めしない。
これらの経験を通して、かけがえのない友人が出来たし、我々一人一人を家族のように大切に思える存在である。彼らと出会えたこと、彼らと過ごした時間はダイヤモンドにも勝る宝物である。

5 フランス人女性との出会い~別れ

Halloween の日に、私はフランス人女性 N さんに出会った。彼女は神様のコスプレをしていたが、私には本物の女神が現れたと錯覚するほどであった。午前4時、帰りの電車でたまたま隣に座り、そこで改めて自己紹介を通して彼女という人物を知った。彼女はフランスで一年間日本語を勉強し、日本のアニメや漫画が大好きだということで、すぐに打ち解けた。特に彼女は日本の代表的な漫画である NARUTO が一番好きなので、私は iPad を利用して、翌日からすぐさま NARUTO の第一巻から読み始めて学習した。
さらに、Thanks Giving Day では彼女と同じ屋根の元三日間共に過ごした。その結果、私は特別な感情を抱き始めた。今まで日本人しか好きになったことがなく、日本人としか恋愛をしたことがなかったので、何をどうすればいいのか全くわからなかった。そんな時心の支えになったのが、ルームメイトの存在である。彼らに、ヨーロッパでの恋愛事情を一から叩き込まれ、それを一つ一つ実践していった。二人の時間を作れというアドバイスの元、夕食を一緒に食べたり、ジムに行ったり、学校内にあるビリヤードを一緒に楽しんだりした。
そして12月の中旬、2週間の冬休みの前日に Thanks Giving 時のメンバーで食事をとり、学校内に戻った後、私はうまく口実を作り二人だけの時間を作った。彼女は二週間の冬休み期間フランスに帰る予定だったので、「日本から味噌汁を持ってきていて、ぜひ N ちゃんの友達や家族にプレゼントしたい。だから少し外で待っていてほしい」という内容を伝えた。
その夜は満天の星空がきれいで、私は抑えきれない感情を言葉に出して伝えた。そして、彼女は私を彼氏として選んでくれたのである。しかし、私たちは二月の中旬にお互いの母国に帰る事が決まっていたため、彼女がフランスから再び戻ってきてから残された期間は約一か月しかなかった。
最後の一か月、私は帰国の事を考えずに純粋に楽しんだ。そして、帰国の時にお互い相談した結果、別れることを決意した。なにより物理的な距離がありすぎるし、お互いまた母国に帰ってから新しい人生が始まるのだから、最後の一か月間は良い思い出としてお互い新たなステップを踏み出そうというものだった。しかし、現在でもたまに連絡は取っているので、いつかまた再開する日を楽しみにしている。

6 最後に

語学学校は費用がかかり、日本人も比較的多く、同じ国籍同士で閉鎖的なコミュニティーを作る傾向がある。しかし、英語学習を目的とした人々と共に切磋琢磨でき、さらに学校に拘束されるのはせいぜいわずかなので、自由な時間が非常に多い。そのような中で、机に向かって教科書を開くのではなく、外の環境へと足を運び続けることが、語学学校で成功する秘訣なのではないかと思う。
月並みの感想かもしれないが、私は今回の留学を通してとても貴重な経験が出来た。特に、様々な国や年齢層の人たちとの関わりを通して国際交流が出来たし、中東の人たちとのテロに関する会話や、ヨーロッパの人たちとの移民問題に関する会話などを通して、彼らの生の声を聞くことが出来た。そしてなにより国籍という概念を超えたかけがえのない友人が出来た。彼らは私にとって、留学生活を共に作った一時的な仲間ではなく、今後の人生を共に作っていく大切な仲間である。留学先での出会いや学びを大切に、これからの人生大きく躍動していきたいと思う。
そして最後に、私の留学体験記を通して少しでも海外への留学に興味を持っていただけると幸いですし、この留学体験記に時間をかけて作成した意味があると思っています。

 

 

 



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