英国 & アイルランド 私費英語留学 (土門 Vol .1 )
名前 土門理絵 (日本)
留学先 イギリス、アイルランド共和国
期間 7ヶ月間、2001.9.~2002.3.
留学の種類 私費留学
*
留学の動機
「20歳前に全くの未知なる世界に自分を置いてみて、自らの環境適応力や語学力、コミュニューケーション能力を試してみたい。」これが今回の7ヶ月間に渡る私の留学目的である。このような事を試すには生まれ育った日本では到底不可能であると思い、大学3年次の秋に半年間の休学をして私は一人イギリスへ旅立つ決意をした。
*
留学までのスケジュール
2001.5.22. パスポート申請
2001.6.2. 某旅行会社の留学説明会&本格的留学準備開始
この頃から語学学校の資料請求を開始
2001.8.29. 出発前日再三にわたる請求でホームステイ先が分かる
2001.8.31 日本出発
2001.8.31. ロンドンHeathrow到着
*
留学してからの行事・事件等
2001.9.3 語学学校初日
2001.9.8 Bath小旅行
2001.10.6 Brighton旅行
2001.10.20 フランスLILLE旅行
2001.11.24 TOEIC受験
2001.12.8 Oxfordへ引越し
2002.1.5 Paris旅行へ出発
2002.1.8 Parisから帰る
2002.2.16 Oxfordの語学学校終了
2002.2.17 Munich旅行へ出発
2002.2.21 ドイツから帰国
2002.2.24 アイルランドへ出発
2002.3.18 アイルランドを出発、再びLondonへ
2002.3.22 日本へ帰国
*
費用
イギリスへの交通費 29万円
6ヶ月間のイギリス留学費用 110万円
オックスフォードへ転校の追加費用 20万円
アイルランド留学費用 20万円
旅行費用(パリ・ミュンヘン)10万円
生活費・諸経費 70万円
英検受験料 2万円
計 240万円 くらい
物価は日本よりも高いし、交通費も高い。生活が困難な国でした。
*
国の事情(ガイドブックに載ってないようなの)
留学中に何度か旅行しましたが、特にパリでの個人旅行は気を付けた方がよいと思います。地下鉄の路線の中でも観光客が立ち入っては危険な地域と比較的安全な地域が明確に分かれており、事前に下調べをしてから旅行しないと痛い目に遭うかもしれません。対して、ロンドンはあまり危険な都市ではありませんが、スリや物乞いは比較的多いと思います。
*
留学先での生活
月曜から金曜までの一般的な一日(マーゲートにて)
7:30起床
8:00朝食
9:00授業開始(午前中は基礎的な文法中心で午後は選択授業)
12:00昼食
15:00授業終了
その後図書館などで勉強
18:30帰宅
19:00夕食
その後パブに行ったり、テレビを見たりしてだらだら過ごす
23:00就寝
最初の一週間などは友達もみんな8時くらいに就寝していたほど、留学中はとにかく眠たかった。
*
それぞれの国の評価(5段階 1=最悪 5=大満足)
・ 物価 ☆☆
・ 治安 ☆☆☆☆
・ 国民性 ☆☆☆
・ 食 ☆
・ 空気 ☆☆☆☆
*
学校のカリキュラム
私は7ヶ月の内に3回ほど語学学校を転校しましたが、どこも大体同じようなカリキュラムが組まれていました。午前中は最初の試験の結果によって、上級・中級の上・中級・中級の下・初級の5段階くらいにクラス分けされます。このクラスでは文法を徹底的に叩き込まれます。そして、午後の授業は選択科目になっており、会話・検定試験・ビジネス等から自由に選ぶことが出来ます。オプションはそれぞれの学校の特色が最も繁栄されているので、ここの充実度に拠って学校の良し悪しが決まるかもしれませんね。
*
語学情報(検定、進学への必要スコアなど、難しさ、努力)
私は滞在中にTOEICを受験しましたが、この試験はある一定のテクニックが必要とされます。ただ、最初のリスニング部門は日常会話から出題されているので、英語圏で生活していれば自然に得点は上がると思います。文法は高校程度の復習を行なっていれば問題は無いでしょう。他の検定試験(ケンブリッジ英検、オックスフォード英検)はその為の集中講義が必須です。
*
検索ツール、本の紹介
留学中に欧州諸国を旅行するには安くて、簡単で、便利なツールでした。
http://www.flybmi.com/bmi/en-gb/index.aspx
海外のニュースをリアルタイムで見たり、聞いたり出来るので英語の勉強になります。
http://www.bbc.co.uk/worldservice/index.shtml
*
*
第1章 紅茶の国英国へ
*
日本出発から約13時間後、私は生まれて初めての外国となる英国のヒースロー空港に到着した。厳しいと聞いていた入国審査も驚くほど簡単に終了し、反って拍子抜けしてしまった。この日は、十分な休養を取る為に近くのホテルで一泊という予定になっていたが、さて目的のホテルにはどう行ったらよいのか全く分からない。誰かに聞きたくても私は英語が全く話せないし、当時は話しかける勇気も無かったのだ。これから6ヶ月間本当にこの地で生活していけるのだろうかという漠然とした不安が私を襲っていた。
思い起こせば、私が留学を真剣に考え始めたのは、その年の5月の事だったと思う。高校時代から大学生活の4年間に一度は長期留学をしてみたいという思いはあったが、大学入学から勉強、サークル、バイト等に追われる毎日の中で、その思いは段々と私の意識の中から遠退いて行った。しかし、高井ゼミに入った事で再び留学への思いが、今度は具体的に考えられるようになったように思う。留学先を決めるにあたって私が重視したのは生活環境と学習環境であった。3ヶ月前から収集し始めた語学学校のパンフレットは当然だが良い事しか書いていない。全てのパンフには教室で楽しそうに談笑する授業風景や休憩時間等の写真が掲載されており、そこには殆どアジア人の姿は無く白人ばかりが写っていた。
にもかかわらず、この当時私はこの風景に何の疑問も抱くことなく、すんなりとある田舎の古い貴族の館を改装したという語学学校に行き先を決めてしまった。ここの学校の魅力は何といってもホームステイ先が学校から徒歩10分以内という便利な立地にあった。また、英語に全く自信が無い私は、都会の喧騒に紛れるよりも田舎でののんびりとした生活の中での語学習得が適しているように思われたのだ。
結局私が4ヶ月間住む事になったイングランド南東部のマーゲートの更に田舎のCliftonvilleは海に面した何にも無い住宅街であった。私の通っていた学校Fitzroy collegeは一昔前、観光都市として栄えたイングランド地方では数少ない砂浜海岸のマーゲートから更にバスで10分くらいの所に位置していた。私の抱いていたイギリスの片田舎のイメージ-はちみつ色の小さな家々に手入れの行き届いた可愛らしいお庭-とは大分違ってはいたが、最初の頃はのんびりとした良い田舎町だと思った。
*
*
第2章 オックスフォードへの転校
*
第1節 暖かいホストファミリー
*
2001年も終わりを告げようとしていた12月8日、私は重量の増したトランクを引きずりながら4ヶ月間住んだマーゲートを後にした。ホストファミリーとの別れは実にあっさりとしたものであった。留学生受け入れに慣れ過ぎたホストファミリーは別れの次にまた新たな留学生が待っているので、一人の留学生が帰ったからといって何の思いも無いらしかった。子供が小さい為もあって、日々の生活に追われている感が常にあった。私も新天地であるオックスフォードに思いを馳せていて、内心心は踊っていた。
一度、学校の小旅行で訪れたオックスフォードは中世の面影をそのまま残した風格ある伝統都市であった。長距離バスCoachでマーゲート-ロンドン間を約3時間、その後ロンドンで軽い昼食を取った後、ロンドン-オックスフォード間を約2時間でその日の午後3時にはオックスフォードのCoach stationに降り立った。そこからタクシー(通称Black Cab)に乗り込み約15分後には新たなホームステイ先に到着した。
玄関で出迎えてくれた新しいLand ladyは丸々と太った品の良い優しそうなおばあさんであった。「あ~今回は運が良かった!」と思わずこちらも笑顔が浮かぶ。留学前から友人から聞かされていたが、ホストファミリーは「運」である。私の場合は最初のホストファミリーとは馬が合わずに何度もホストを変えてもらおうと思ったが、結局は4ヶ月間我慢してしまった。そのせいもあって今度のホストファミリーには多少の期待も在ったが、その期待は見事叶えられた様であった。
Land ladyのMollyは今年で70歳であったが、両隣の老夫婦と老婦人の世話を積極的に焼き、ボランティア活動にも毎週欠かさず参加する慈善愛に満ちた暖かい人であった。そして、その夫であるIvorは自動車の整備工を長年勤め上げ、今は悠悠自適な年金生活を営むユーモラスで時に厳しいLand lordであった。
そして彼の一番の誇りは「フリーメイソン」会員であることである。Ivorによるとフリーメイソンには3つの階級があるらしく、彼は今度その最高の位であるseniorになる為に、毎日必至に勉強していた。Seniorになる為には歴代のsenior会員の前で、数ページある組織規約を暗唱しなければならないそうだ。しかし、70歳を越えたIvorにはこれは大変な作業であり、彼は2ヶ月くらいかけてゆっくりと覚えていたようだ。こんな暖かい2人に囲まれ、その年のクリスマスから新年は充実した落ち着いた日々が過ぎていった。
*
第2節 スリとParis
*
日本と違い新年をそれほど重視しないイギリスでは語学学校は1月2日から始まったが、この時期は生徒も少なく、クラスも統合されていて学校には活気が無かった。そんな訳で、私も休暇を一週間延長してドイツに滞在していた先輩とフランス旅行をすることにした。
イギリスに留学している日本人はフランスへ旅行する人が多いようだ。私の知り合いもその多くは休暇を利用してフランスに旅行していた。そして、みんなが口を揃えて言うことは「Parisにはスリが多い。しかも、かなり悪質な。」という事であった。しかし、その時オックスフォードの生活にも慣れロンドンにも行き慣れていた私は、そんな忠告を聞く耳を持たなかった。後にこの事が大変な後悔に繋がるとも知らずに。
パリ旅行の前日、旅行資金£200を銀行で下ろした後、いつものように街をふらふらしてインターネットカフェに立ち寄った私は、帰り掛けのレジ前で呆然と立ち尽した。「財布が無い!?」そんな不幸は私には訪れるはずの無いことであった。いや、訪れてはいけない事であった。明日はパリ旅行である。しかも、危険注意報が出ているパリでは無くてこの慣れ親しんだオックスフォードでスリに遭うなんて信じられない出来事であった。この時パニックになりそうだった私はなんとか平静さを装って、店員に私の財布が盗難に遭ったことを説明して、電話を借りてステイ先に助けを求めた。
「Help me! I was steeled my wallet at an internet cafe」とか何とか言ったのであろうか。数分後にMollyが来てくれて料金を支払ってくれ、そのままIvorの運転する車で家に帰った。その間、MollyもIvorも意気消沈している私を慰めながら、パリ旅行の資金まで貸してくれると言ってくれた。家に帰ってからもMollyがすぐに警察に電話をしてくれて、私の代わりに全ての詳細を説明してくれた。2人の速やかで冷静な対応のお陰で私は事務手続きや英語での説明に煩わされることが無く、旅行前日の災難にも関わらず平静を保っていられたのだと思う。この時の2人の優しさ暖かさは一生忘れる事はないであろう。
別に保管しておいた日本円を換金したお金とMollyに借りた£60で、次の日私はなんとか無事にパリへと旅立つことが出来た。しかし、この時はまだ最大の問題が残されていたのだった。今回私は国際学生証も盗まれてしまった為にWater loo駅のユーロスター窓口でその事を説明し、学割チケットを受け取らなければならなかった。このチケット引渡しには国際学生証の提示は絶対条件であったのだ。
「ここまで来たら絶対にパリに行きたい!」そんな気持ちで私は窓口のお姉さんに身振り手振りを交えて必至で昨夜の出来事を説明した。そんな私に同情したのか、そのお姉さんは学割チケットを発券してくれたばかりでなく、その裏に私の事情を英語で説明書きしてくれ、「何かあったらこれを係員に見せるように」と配慮してくれた。こんな時「イギリス人は本当に素晴らしい!」と心から感激してしまう。規律に対して忠実でありながら融通の効く国民性。「日本人もこうであれば良いのに」と留学中に何度も思ったものだ。
*
こんな訳で無事にユーロスターに乗り込んだ私であった。ユーロスターはイギリスのWater loo駅とパリの北駅を結ぶ新幹線みたいなものである。今回の私の席は一番安いユース席であったが、車内は新しく清掃が行き届いていて気持ちの良い列車の旅となった。
ユーロスターの乗客はイギリス人とフランス人が半々くらいの割合のようだ。車内では英語と共に優雅なフランス語があちこちで飛び交っている。当然ながら車内放送も英語の次にはフランス語が流される。英語での生活に慣れていた私にとってフランス語は優雅で心地よい響きを持った音楽か何かのように聞こえる。そんな中で私はいつの間にか深い眠りについてしまった。
車内のざわめきと共に目を覚ますとそこはもうパリの北駅であった。私にとってパリは憧れの街であった。マリーアントワネットに凱旋門にエッフエル塔にシャンゼリゼ通りにフランスパンにルーヴル美術館等、数え上げれば切りが無いほどの世界に名だたる文化都市。「きっと一生忘れられない素晴らしい旅行になるだろう」と、この時は前夜のスリの事などすっかり忘れて、期待に胸躍らせていた私であった。
パリを旅行して思ったことは、ロンドンは首都にしては割合にきれいで安全な都市であるということである。加えて、人も普通の人は親切であり、そこそこ信用も置ける。それに比べてパリは、地下鉄など公のものは整備とは程遠く、駅員などの態度も横柄で、何を聞いても曖昧にしか教えてくれない。
また、愛想良く英語で話しかけてくる人が多かったが、これらは非常に怪しく思えて仕方が無い。「彼等は絶対にスリか変質者に決まっている!」と、なんだか妙に決め付けてしまう。パリ旅行2日目に少年のスリに付け回され、挙句の果てにショルダーバッグを空けられた。しかもその後、真っ昼間の観光地の道端で見事、露出狂に遭遇!?とあっては、パリ2日目にして「もう、パリなんて嫌いだ!誰も信用できない!」と拗ねたくなってしまう気持ちも分かってもらえるだろうか?道に迷っている私たちを可哀想に思って純粋な親切心から話し掛けてくれた人も中には居たのかもしれないが、どれが悪魔でどれが天使なのか、その判断が難しい。
ロンドンでは道端で話しかけてくる人は殆ど悪人あるいは何か悪巧みをしていると思って間違いない。普通のイギリス人はその性格からなのか、あまり積極的に話しかけて助けてやろうとはしない。しかし、積極的に話しかけない代わりに聞かれたら非常に親切に教えてくれる。これがイギリス流だとしたらフランス流はどうなのだろうか?
「道端に困っている人が居たら何はともあれ話しかけて助けてやろう」というのがフランス流なのだろうか?これだとフランス人は非常に良い国民のように聞こえるが、不勉強な私にはフランス人の国民性は分からない。もしかしたら、私達は絶好のチャンスを数多く不意にしたのかもしれない。帰り際、負けん気の強い私の友人が言っていた言葉が印象的であった。「このままじゃ悔しいからいつか絶対にリベンジしたい!」今は私も彼女と同様の気持ちである。いつか絶対に!
*
第3節 原因不明の病気
*
パリ旅行からオックスフォードに帰ってきた数日後、私は突然、強い吐き気と目眩そして体のだるさに襲われた。最初のうちは風邪だろうと思い軽く考えていたが、これが後に今回の留学最大の苦しく辛い経験になろうとはこの時思ってもみなかった。
私は正直今回のパリ旅行ほど心身ともに疲労困憊した旅行はかつて無かったと思う。オックスフォードという安全な場所になんとか無事に帰り着いて改めて思ったことは、今回の旅行日程の悪さであった。
今回私は土曜日の午後にパリに到着。その日はそのまま少しの夜間観光をして、翌日の日曜日から本格的に観光名所などを巡った。が、これがそもそもの元凶であったのだ。カソリック国であるフランスでは日曜日は全ての職場、商店はお休みである。従って当然ながら街にはサラリーマンや学生の姿は皆無であり、あるのは状況を知らない観光客とそれを狙うスリ達の姿である。日曜日のパリの街は観光客とスリという、まさに獲物と狼しか存在しない非常に危険な地帯に変化してしまうのだ。そして、迂闊にも私達はそんな危険地帯に足を踏み入れてしまった。
ここまで書けば私たちの状況が少しは分かって貰えただろうか?恰好の獲物と化した私たちに出来る事といえば、逃げることくらいしか無かった。その日はとにかく周囲をぎょろぎょろと睨み付けながら、小走りで観光を終えた。こんな感じでのパリ3日間の次の日からの通常の授業である。疲れないわけが無いではないか!そう、私は疲れたのだ。パリでのストレスと風邪とのダブルパンチで私は留学して初めて床に臥してしまった。この時ほど日本に帰りたいと思ったことは無い。日本を離れて5ヶ月目、精神的、肉体的疲労が頂点に達していた時期であった。
*
*
第3章 妖精とギネスの国アイルランドへ
*
第1節 ドイツ小旅行
*
英国の語学学校で計6ヶ月の語学研修を終えた私は、ゼミ教官の熱心な勧め(?)に従い、アイルランド共和国への3週間の留学継続を決意した。アイルランドと聞いてまず思い浮かべるのは、妖精の国、英国の植民地であったという長く暗い過去、そして、「IRA」の存在ではないであろうか。ちょうど、私がオックスフォードに滞在していた時にも、ロンドンの国営放送前でIRAの爆弾テロが発生した事を今でも鮮明に覚えている。オックスフォードとロンドンとは目と鼻の先であり、私も週末を利用してロンドンで遊ぶことが多かったので、この出来事は私にとっても他人事では在り得なかったのである。
そんな期待と不安を胸中に秘めて、私は一先ず一週間の休暇を取る為に友達のいるドイツのミュンヘンに旅立った。私の友達というのはドイツ人と日本人とのハーフであり、彼女が北大留学中に私の所属していたサークルで一緒に働くスタッフとして出会ったのがきっかけである。
彼女は現役のミュンヘン大学の学生であるので、その関係でミュンヘン大学の不味くて有名な学食である「メンザ」にも連れて行ってもらった。メンザでは最初に入り口付近の大画面に今日のランチメニューが3つほど表示されており、学生はそこで各々の気に入った定食を選んで食券を買うという仕組みになっていた。
この日、3つあるメニューの中から私が昼食として選んだのは、以前から一度は食べてみたいと思っていた「ニョッキ」である。これはジャガイモをすり潰して小麦粉を加え、団子状にして親指大の大きさにカットして茹で上げ、ホワイトソースに絡めた伝統的なイタリア料理である。そして、私は好奇心いっぱいに生まれて初めてメンザに入った。メンザの内部は厨房と食堂が壁によって完全に分かれている他はそれほど北大の学食とは変化が無いように思われた。ディスプレーされている料理も意外に美味しそうに見える。が、ここで抱いてしまった淡い期待は大間違いであったと後に気づく事になった。生まれて初めて食べた「ニョッキ」の感想はというと、口に入れた瞬間に「ぐにゅ、べちゃ」という何とも頼りない食感。それに続いて今まで食したことが無いほど濃厚なごてごてしたホワイトソースが口の中にまったりと広がる。
「う~ん。そうか、これがミュンヘン大学のメンザというものか。やはり噂通りだ!」と、私はなんだか妙に感心し、納得してしまった。イギリス人はドイツ料理を不味いと言い、ドイツ人はイギリス料理を食えたものじゃないと罵る。一体勝者はどっちなのか?個人的意見としては、若干ドイツ料理が勝っている気もするのだが。
食事が不味かったのはともかくとして、この経験は非常に有意義であったと今では思っている。外国旅行中にその国の有名大学に潜り込み、そこの学生に混じり学食で昼食を取るということは、今後の人生の中でもそう多くはないであろう。この事では、私の我侭を聞いてくれた友人、ミヒャエル(以下ミミ)に非常に感謝している。
昼食後、彼女は彼女が所属しているミュンヘン大学の日本語学科に私を案内してくれた。
ミュンヘン大学は各学部に校舎が分かれて存在している。北大のように広大な敷地に全ての学部が集まっている大学も珍しいが、それにしてもミュンヘン大学は少々不便な気がしなくも無い。先ほど紹介したメンザも学部とは別にそれ自体単独で地下鉄駅の正面にある。従って、学生が学食に行きたい時にはわざわざ地下鉄で移動しなければならない。北大に慣れ親しんだ私にとってこれは不便極まりないように思うのだが、ミミは何の不満も言っていなかった。
*
第2節 アイルランドでの私の家族
*
今回の留学の締め括りにと私が選んだ国アイルランドはほぼ北海道と同じ面積の国土に2つの国家が存在している。ひとつはイギリス領である北アイルランドであり、もうひとつはアイルランド共和国である。そして、その歴史は常に宗主国イギリスからの搾取と戦いの歴史。そんな暗い過去を持ちながらも、アイルランド人は非常におしゃべりで明るい性格の持ち主である。勤勉に働くよりもパブで気の置けない仲間とギネス片手に楽しくおしゃべり。怠惰なのではなくて楽しいことが大好きなのだ。
私がダブリンで滞在したステイ先は、新聞の活字工を定年で退職後、友人と共に運送関係の会社を興したという働き者で優しく愛妻家で博識なSamとケータリング業を営むほどのお料理上手で優しく働き者で天真爛漫という言葉がぴったりのアイナの2人家族であった。この2人には形容詞がいくつあっても足りない。とにかく私にとっては世界一素晴らしいホストであったと思っている。
私を自分の娘同然に可愛がってくれるアイナとサム。私達3人は年齢など関係無しに最初から非常に良く気が合った。私は朝起きると学校へ出かける前の朝の数分を惜しんでアイナとおしゃべりし続けた。学校から帰って来てからも夕食の準備をしているアイナの隣に座り、今日学校であった出来事を延々と話し続けて夕食後はそれにサムも加わって3人でTVを見ながら夜遅くまで他愛ないことを話した。
私の人生の中で毎日こんなにも話をした事が今まであったであろうか?しかし何もこれは私がアイルランドに来て急におしゃべりになった訳でも私の語学力が急に伸びたからでも無い。それはサムの暖かい人柄や早口でしゃべりまくる優しいアイナに出会ったこと…つまり彼等の雰囲気が自然と私をそうさせたのである。この3週間余りで私の語学力は飛躍的に上昇した気がするし、実際そうであったと思う。また、この時が私の留学の中で一番充実した時間でもあった。出来ることなら留学の最初から彼等の家に滞在したかった。「そうすれば、私の英語力は恐ろしいほど上昇したに違いない!」等と私は未だに密かに悔しがったりしている。
*
*
おわりに
*
私が出発する日は午前中に3人でハイキングに出かけた。あと数時間で別れが来るという寂しさと切なさ、これで無事に留学が終わって日本へ帰れるという安堵感とが様々に入り混じった非常に複雑な気持ちであった。アイルランド出発直前、アイナとサムが見送りに来てくれた空港で私はとうとう泣き崩れてしまった。人生においてこんなにも悲しく感情的になった別れをしたことはあまり無い。飛行機の中でもずっと泣いていた私を隣に座ったおじさんが不思議そうに見ていた。どうやら私は留学して物凄く涙もろくなった様である。実は今もこれを書きながら泣いている…。
7ヶ月間の留学期間中に私の思考や感情は様々に揺れ動いた。未だかつて味わったことの無いぎゅっと濃縮された7ヶ月間であったと思う。これは自分自身を見つめ直す非常に良い機会でもあった。「見ず知らずの土地(外国)に行ったら私はどのような行動をとるのか?」や「私にとってはどこまでが危険なのか?」がはっきりと認識出来たような気がしないでも無い。
初めての海外生活は孤独や戸惑いの連続であったり、些細な事で落ち込んだり喜んだりと心身ともに疲労することが多かったが、その分得るものも大きかったように思う。留学後に自分自身がどのように変ったのかはまだ分からないが、これからの長い人生の中でそれが少しずつでも見えてくれれば幸いである。
*
*
[まとめ]英国に戻る。[Column] 韓国 ホームステイ (土門 Vol.4)