韓国 延世大学校 交換留学 (Vol.1)

アジア

イニシャル S.H.
留学先 韓国 延世大学校
期間 2001年8月末~2002年1月まで
留学の種類 北大経済学部交換留学

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留学の動機
 最初から留学に興味があったわけではなかった.心のどこかで海外への憧れみたいなものはあったけど,具体的に留学に行きたいとは思っていなかった.韓国を留学先に選んだ動機は,強いてあげれば,ハングルに興味があったから.あの未来文字にはゾクゾクするものを感じていた.韓国の映画とかアイドルとかには,今も昔も知識がない(僕は日本の韓国好きの韓国芸能界への精通ぶりは苦手だ).韓国や韓国料理の魅力には向こうで暮らしてから気づかされた部分が多々あった.
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留学までのスケジュール
2000年冬頃:留学の話を耳にする.北大から延世大学へのはじめての交換留学生としてゼミ内で密かに進行する予定だった.
2001年2月頃:留学先の延世大学校に文部科学省から奨学金がついたために、試験が執り行われることになった.
2001年4月頃:英語の筆記と面接の試験.
4月末:僕は,奨学金はもらえなかったが、北大からの交換留学生として派遣されることが決まった.  
5~6月頃:留学先の寮とメールで交渉.7月に入金.とりあえず,住む場所が決まった.
6月:この留学が初海外だったため,パスポートを作成.同時に,韓国領事館でビザの申請.札幌だったら,3日もあれば完成する.
7月:飛行機のチケットを片道(!)で買う.今思えば,オープンで往復を買えばよかった.
8月中頃:韓国へ
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費用:
学費:交換留学なので,北大に学費を納めればよい.
寮費:8月中頃~12月末で700米ドル.
飛行機代:7万円(これは,「片道」で,しかも買う時期が遅かったため.回りの友達は5万くらいでオープンの往復で来ていた人が大半だった.)
生活費:月に6万円もあれば十分.
ちなみに,韓国の物価は,交通費が異常に安いのを除けば,日本より若干安い程度なので,期待するとへこみます(ペプシやコークのような世界企業のものは日本のほうがむしろ安い).
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国の事情(ガイドブックに載ってないようなの)
 韓国は近い上に,日本で暮らす在日韓国・朝鮮人(ちなみに朝鮮という呼称は韓国では差別語に近い)が多いために,ガイドブックや,日本で手に入る韓国情報の本にはかなりコアな情報まで網羅されていると言っていいと思う.強いてあげるなら,意外にレイプの発生率が多いらしい(韓国の社会問題として聞いた)ということくらいか(ただ,こんな出来事,普通に暮らしていたら巻き込まれるはずもないので,あまり特筆すべきことではないかもしれない).あとは,交通事故に気をつけること.運転の荒さ(全ての乗り物で)は日本の比ではない.
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留学先での生活(どんな一日を過ごすか)
(典型的なある一日)
6:30 起床 
7:00~8:30 テコンドー
8:45 寮に一度戻る
9:00~11:30 授業
13:00~15:30 授業 (無い場合は自由時間)
16:00~17:50 韓国語
19:00~20:30 テコンドー
21:00~ 適当に夜遊び
 テコンドーの道場に入っていたときは週3回こんな生活.テコンドーの練習が無い日は,テコンドーの練習の部分に,適当に遊びとか自習とかそんなのが入る.基本的に,授業はプレゼンテーションやグループワークが多かった.大人数の授業でも日本の大学とは違う.
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・ それぞれの国の評価(5段階 1=最悪  5=大満足)
・ 物価  ☆☆☆ : 日本より少し安い程度.食費はかなり安くすむはず.
・ 治安  ☆☆☆☆ : 交通マナーは非常に悪い.警察も信号無視が当たり前.
・ 国民性 ☆☆☆☆(☆☆☆):大抵の人は親切で素晴らしい.
・ 食   ☆☆☆☆☆ : 個人的には好み.辛いのがダメな人にはつらいと思う.一回,胃腸を   壊せば何とかなると思う
・ 空気  ☆☆☆☆ : 雰囲気は悪くない.韓国人は内側に向かった国民性なので人間関係とか,ある意味で楽.
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学校のカリキュラム
 国際教育学部(Division of International Education)の場合,授業は全部英語.ただし,授業レベルは教養程度(アメリカからの留学生は大半が1~2年生).韓国語の授業は選択だが,毎日夕方に2時間あるので,簡単な会話ならすぐできるようになる.北大からは国際教育学部への交換留学だが,付属機関の韓国語語学堂への転入も可能(ただし単位認定はされない).
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語学情報(検定、進学への必要スコアなど、難しさ、努力)
 韓国語は日本語と文法が同じなので,日本人には容易なはず.最初からやれば問題はない.英語は,ネイティブ並の語学力がある人なら,授業は簡単だと思う.僕は,それほど英語力がなかったが,気合で乗り切った.
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検索ツール、本の紹介
関川夏央 『ソウルの練習問題』:古いけど名著
     『海峡を越えたホームラン』:日韓のプロ野球の話し
野村進 『コリアン世界の旅』:韓国人の深い部分がわかります
(著者名忘れた)『ソウル・ファイター』:延世大学に行くなら生活圏がかぶるので必見『地球の歩き方 韓国』 : 韓国版に関しては持っていて損はない
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 韓国留学経験記
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1.最初の衝撃
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1-1. 出国
 2001年8月21日、その日が近づくにつれ、僕はその日がずっと来ないことを願うようになっていた。僕はものごとの成り行きに戸惑っていた。
 留学が決まったそもそものきっかけはこうだ。
 僕は、韓国の文字「ハングル」に興味を持っていた。理由は10歳のときに見た韓国製のフィルムのケースに書かれていた「ハングル」に言いようのない「かっこよさ」を感じ、以後、僕の中では「未来の象徴」としてあり続けた。だれにも文字に感じるクールさというものはあると思う。例えば、ロシア語やヘブライ語。映画マトリックスなんかでランダムに出てくる日本語の使われ方などもこういう部類のものに入ると思う。
 しかし、だからと言って韓国語を独学するほど僕は真面目な人間じゃなかったし、それ以外の韓国にはほとんど知識がなかった。
 大学のゼミで、ゼミの担当教官に僕は、軽い気持ちでこう言った。
 「先生、ハングルってかっこいいですよね」
 「じゃあ、本庄君、韓国行ってみないか?」 
 僕が通う大学は、韓国ナンバー2のトップ大学、延世大学校と交換留学の提携をしていた。しかし、過去10年で北大から延世に留学した実績はゼロだった。当時、日本から韓国への留学希望者は少数の韓国専攻者に限られ、延世大学校が優れた英語プログラムを持っていることも知られていなかった。その先生は、たまたま延世大学校との交換留学の窓口役をしている方だった。
 こうして韓国行きの話がゼミの議論で決まりかけ、そのまま留学派遣の選考試験を受けることになった。しかし、そもそも韓国留学を考えて大学生活を計画してこなかったし、前述したとおり、ハングル以外に韓国には知識がない。それに、大学に入ってから始めた音楽活動の方も色々な人から認められ始めていた。ここで韓国に行って半年間ブランクを空けてしまったら損だ、などとも躊躇した。
 案の定、3人の志願者がいたその留学派遣の選考試験で、僕は3人中3番目だった。僕の大学から行くことができるのは2人まで。当然、僕は行くことができないはずだった。が、1番の人が辞退してしまった。そこで僕までもが行けることになったのである。
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 そんなわけだから、韓国に向かうプレッシャーは大きい。それに行く前から向こうでの生活には心配が尽きない。大体、言葉が出来ない。韓国語はもちろん、留学先の大学の寮や授業で必要な英語も、トップ大学で生き抜くには中途半端な状態だった。とにかく不安で不安で仕方がない。
 しかも、その2週間前に2年間付き合っていた恋人とケンカして別れ、その後に、扁桃腺炎で40度近い熱を出し、薬で無理やり熱を下げて治りかけたのが出発の2日前。仮にそのまま日本で生活するとしても、あまり望ましい精神状態ではなかった。
 「運良く」、その日は、大型の台風が日本に直撃すると騒がれていて飛行機の欠航が相次いでいた。
 僕は内心、「このまま欠航して飛行機飛ばなきゃいいのに」なんてわけのわからないことを考えながら出発の飛行機を待っていた。けれども、飛行機は定刻どおり出発。
 不安なまま僕のまっさらなパスポートに「出国」という判が押された。
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1-2. ハングル
 台風が通過する、とか言っていたわりに、乗り継ぎで乗った関西国際空港発の飛行機は揺れもなく、安全に航行を続けていた。気のせいか、乗客が全員韓国人に見える。
 仁川(インチョン)国際空港に近づくにつれ、なんだか空気の色が違って見えてきた。窓から見える道路に、僕にとっての「未来文字」ハングルが書かれているのが見えた。ついに来てしまった。ここで、楽しみに胸が躍るくらいの性格ならいいのだろうけど、その文字を見て、もう引き返せないところまで来てしまった事実に気づき、ますます不安になる。MDプレーヤーの音量を少し大きくして、飛行機の低い天井を見る。「これから、どうなるんだろう。と言うよりも、今日きちんと寮に着けるんだろうか」などと考えてしまう。
 飛行機を降り、入国手続きをする。周りは観光客だらけだ。皆、何か楽しそうだ。
 「畜生」。
 それに引き換え、プレッシャーを抱えて、入国手続きのカードに必要事項を書く。
 手続きが終わって、ゲートを出たら僕が乗った便の人は皆手続きが終わってしまったらしく、ターンテーブルの上には僕のリュックサックだけが放置されていた。その荷物を背負う。そしてお金をウォンに両替して、ついに僕の韓国の生活が始まった。
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1-3. タクシー
 僕が住むことになっていた、延世大学校国際宿舎(ヨンセテハッキョクッチェハクサ)はソウル市内の西大門区にあり、新村(シンチョン)という日本で言えば新宿のような繁華街の近くにある。そこにはバスでも行けるのだが、当時の僕はハングルがほとんど読めない状態だったので、バスは無理だった。そこで、タクシーを探すことにした。荷物を持って、出口を出ると、タクシー乗り場があったので、そちらへ向かう。
 タクシー乗り場では、運転手たちが集まってなにやら話している。運転手たちの見た目はとまったく変わりがないのだが、話している言葉が違う。僕は、英語で「すいません」と彼らに話しかけた。タクシーの運転手たちは「客が来た」とばかりに僕の周りに寄ってくる。
 当時、韓国語が全く出来なかった僕は、やはり英語で
「延世大学までいきたいのですが」
言うのだが、韓国に行ったことのある人などからきいた噂どおり、まったくと言っていいほど英語が通じない。運転手たちは、「おいおい、こいつ何言ってるんだ?」と怪訝そうな顔で僕を見る。身振りと韓国語で僕に何か言ってくるのだが、僕は理解が出来ない。そのうちの一人が
「マップ、マップ」
と言ってくる。「なるほど、その手があったか」と思い、僕は、延世大学のパンフレットを彼らに見せる。
 すると、そのうちの一人が
「アー、ヨンセイユニバルッスィティ?」
と言ってくるではないか。どうやら「ユニヴァーシティ」では通じなかったようだ。アクセントの洗礼を浴びながら、
「そうそう、そうです」
と英語で返す。
 すると、そのうちの、なんだかどこかであったことがあるような顔をした運転手が、僕を連れて行ってくれることになった。
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 ところで、韓国には大きくわけて2種類のタクシーがある。
 ひとつが銀色の一般(イルバン)タクシー。ソウルで生活していたときに観察していた感じでは個人タクシーが多かった。基本料金は、大体、1900ウォンくらい。安いが乗車拒否や、日本人だと料金のぼったくりに合う場合もある。実際に僕も一度ぼったくりを経験した。
 もうひとつが、黒色の模範(ムバン)タクシー。この運転手たちは皆制服を着ていて、韓国語のほかに英語か日本語が出来る人が多い。僕は韓国滞在中にこのタクシーに乗ることはなかった。基本料金も一般タクシーに比べて若干高い。
 僕が乗ったのは一般タクシーだった(後にこの話を他の日本人留学生にしたら「よく、いきなりでそれに乗ったね」と言われた)。運転手は韓国語しか話さない。こちらも大学まで行く道がわからないから、到着するまでの約1時間が不安で仕方なかった。途中、看板や、建物が全てハングルであることに改めて気づかされる。車の窓から入ってくる空気の匂いはにんにんくの匂いだった[1]。
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[1] 関川夏央著『ソウルの練習問題』で韓国の空気の匂いを議論する話がある。そこではその匂いは「にんにくではない」と書かれていたが、あの匂いはやはりにんにくの匂いだ。夏場だったから汗も多く出ていたが、運転手のアジョッシ(おじさん)の汗の匂いもにんにくの匂いだった、と思う。

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 新村について、大学が近づいてくると、運転手が僕に何か言ってくれるのだが、何もわからない。多分、「この近くなんだよ」とか言ってくれていたのだろう。その運転手は、大学の構内に入ると、学生をつかまえて、「こいつ留学生なんだけど、どこに行けばいいのかわかるか」というようなことを聞いてくれて、無事、寮にたどりついた。寮に到着したのは、午後7時半過ぎだった。
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1-4.いきなり
寮に到着すると、寮の入り口で、何人かの欧米人と多分、コリアンと思われる人たちがたむろしていた。あからさまに、「新しいのが来たぜ」というような目を向けられて、緊張感が高まる。
 寮では英語が通じるのだが、英語で話す環境に慣れていない僕は、この期に及んでも、なんだか、英語を話す自分が照れくさいのと、自分が思っているより話せないことに気づき愕然とする。しかし、話さねば前に進まない。とりあえず、寮を管理しているアジョッシ(おじさん)に
「寮のチェックインの手続きをしたいのですが」
と尋ねる(しかし、実際にはこんな感じでは話せていなかっただろう)。
「じゃあ、寮の事務所にいってください。そこを右に曲がればあるから」
と言われ、そこに行き、また、同様の質問をするとジャンボカットをした韓国人と思しきスタッフが
「もう、チェックインの手続きは終わったよ」
と言ってくる。
「じゃあ、どうすれば・・・」
と聞いても、
「知らないよ」
との返答。いきなり窮地に立たされる。韓国に知り合いもいないし、何もわからない状態で、一体どうしろというのだろう。
 このときの僕は、かなり半泣きに近い表情をしていたのかもしれない。それを見かねた別なスタッフが、
「今日はもう手続きは終わったから、荷物を部屋に持っていけないけど、部屋には入っていい。その代わり、明日きちんと手続きをしてくれ」
と言ってくれた。
 今、思えば、最初のスタッフの行動は明らかに僕をからかっているとしか思えないのだが、その時は、一瞬パニックになった。だから別なスタッフがこういう風に言ってくれたとき、とてもうれしかった。
 彼につれられて、寮の講義室に荷物を置きに行った。僕は、初めての外国で、色々な気疲れをしていて、もう、少しでも早く休みたかった。
 部屋は5階だった。ルームメイトはカナダ人。これから、約4ヶ月間このルームメイトと生活することになった。
 この日は10時には寝てしまった。この日は朝から何も食べていなかったが、何も食べる気がしなかった。これから、4ヶ月間何が待っているのだろうと、漠然と考えながら眠りに着いた。
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1-5. それはアイロニー? 
 その日の午後からオリエンテーションが開かれた。「韓国ってこんなに素晴らしいんですよ!」と言うような内容のビデオと、韓国の著名人がたくさん出て「延世大学大好きです!」というようなビデオを2本立てで見せられる。その後、延世の韓国人学生と一緒にペアになってキャンパスを歩くという企画があったのだが、明らかに大学側の企画ミスでそのペアがなかなか出来ない。僕は結局、一人で新村を歩いてみることにした。
 歩くと、いきなり「Made in Japan NO!!!」の垂れ幕に出会う。しかし、その垂れ幕があるすぐ前のゲームセンターでは、韓国人の若者が日本のゲームに興じている。コンビニやデパートに入っても、日用品売り場で目に付くのは日本製品だった。その垂れ幕を見て首をかしげずにはいられなかった。
 後に、この話を韓国人にしたところ、
「それは、アイロニーですよ」
と言われた。確かに、韓国にある日本製品―しかし、それらの大半は日本の企業名では販売されない―の多さから判断するとそうなのだが、それをアイロニーと言い切れる韓国人はまだ多くはないだろう。 
 彼らが「日本」(日本「人」にではない)に対して持っている感情[2]というのは、やはり僕から見て想像を超えるものだった。そして彼らのプライドはとても高い。
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[2] 僕は幸い、韓国人から直接悪口を言われたりした経験はなかった。しかし、人聞きにそういう話はきいた。強烈だったのは、同じ「韓国人」同士で相手が「在日」というだけで、平気で差別用語を言った韓国人の話だった。また、居酒屋で、隣に座っているのが日本人だとわかった途端、韓国語で日本の悪口を言い出すグループの話も聞いた。たまたま、その日本人たちは韓国語のスペシャリストだったから、韓国人の言っていることに気づいただけなのだけれど。このことの原因にやはり歴史の問題が大きく関わっていると思う。

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2.最初の頃
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2-1. ホームシック
 自分は精神的に強い人間だとは思わないけれども、ホームシックにだけはかからないと思っていた。だが、韓国でそれにかかった。それは強烈なものだった。
 韓国に来て3日目。ルームメイトを見ていると、毎晩、遊びに行っているし、話によると韓国にカナダ人の友人がいるらしい。しかし、僕はどうだろう。誰一人知った人間はいないし、言葉も出来ない。僕はこの国に何をしに着たんだろう。その日の夜、ルームメイトが出かけた後、それらのことを考えたら、急に涙が出てきた。
 誰かに会いたいという気持ちはなかったのだけれど、無性に「日本」が恋しくなってしまった。まぁ、韓国ごとき、日本から近いのに何を言っているんだ、と言う感じだが、あまり目的も持たずに海外にくると、距離など関係なくこうなってしまうのだろう。いや、逆に欧米のほうがこういう気持ちにならなかったかもしれない。韓国人の見た目は、皆日本人にそっくりだ(それは韓国人も思っているだろう)。「この人、日本語を話すんじゃないか」などという気持ちになってくると、ますます複雑な気持ちになっていく。
 しかし、泣いたら、不思議とすっきりした。何かを始めてやろうという気持ちになった。
 この日まで、僕は完全に一人だった。自ら、外との交流を絶っているような状態だった。そういう気持ちではうまく行くものも行かなくなる。僕は、この日を境に気持ちを切り替えた。
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2-2. 連鎖反応
 当初、韓国での生活を始めたばかりの僕は、おそるおそる手探りで生活をしていた。結果、大学周辺を「歩く」ことに終始し、部屋に閉じこもるというパターンになっていた。 ホームシックにかかった3日目以降、完全に気持ちを切り替えた。『地球の歩き方』に出ているソウルの街を制覇すること。そして、韓国料理を可能な限り食べること。これが僕の立てた目標だ。
 こういう気持ちで、生活を始めると、状況は好転してくる。韓国に来て初めて、日本人―I君―と友達になる。しかも、外語大学から来ていた韓国語のスペシャリストだった[3]。それまで、ルームメイトと行動することが多かったが、カナダ人の彼は英語が出来ても韓国語は出来ない。街を歩いてやはり手探りであることに変わりはない。韓国語がほとんど出来ない僕にとって、この友人の存在は大きかった。
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[3] 通常、東京外語大学朝鮮語学科の学生は、韓国語がとても流暢なので、延世大学国際宿舎には入らないらしい(ただし、彼らの大半は英語が得意ではない。ゆえに寮を敬遠すると言う話も聞いた)。僕がいたセメスターも外語大学から3人来ていたが寮に入っていたのは、僕は仲良くなったI君だけだった。彼とは結局、寮を出た後、短期間だが一緒の下宿に住み、一緒の船で帰国した。僕は半期のコースだったが、彼は1年のコースだったので、また韓国に戻った。

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 今考えれば、はた迷惑だったかもしれないが、I君と一緒に街を歩いて、いろいろなことを質問しまくった。「あの韓国語の意味は何か」とか「あれはどう読むか」とか。
 ありがたいことに、ひとつひとつ教えてくれた。しかも、韓国語が専門なので、今回の韓国生活も彼には初体験ではない。だから、韓国料理などにも精通していて、I君と行動するようになってから、効率よく韓国料理を口にすることができるようになった[4]。
 友人と言うのは一人できるとそこから連鎖的に増えていくものだ。I君をきっかけにして僕の寮での人のつながりが出来始めた。
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[4] 韓国で、生活を始めてから、3日ほど、緊張の所為からか何も口にすることがなかった。それでも不思議と空腹感を感じていなかったのだからすごい。

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 こうなってくると、今までつまらなかった生活も、にわかに楽しくなってくる。僕は、寮に留まることなく、金銭的に可能な限り、色々な場所に行き、いろいろなものを食らうことにした。
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2-3. 唐辛子の力
 韓国の料理は辛い。日本の「ピリ辛~」とか「激辛~」とか言うものはどれも辛くない。あれはしょっぱいというのだ。韓国の料理はそんなことは書いていなくても辛い。
 韓国で生活を始めた最初の1週間で胃と腸が機能しなくなった。口に入れた食べものが、下から液体になってそのまま出てくると言う日が続いた。正露丸などまるで意味をなさない。胃が痛くて食べ物をほとんど受け付けない。唐辛子が体になじんでいない日本人には、それくらい強烈だ。
 関川夏央著『海峡を越えたホームラン』で、韓国の辛い食べ物に辟易する日本人選手の様子が克明に書かれていたが、まさか、それを自ら体験することになるとは思わなかった。
 実は、韓国に行く前に、辛いものに慣れようと、辛い食べ物をあえて選び、食べるようにしていた。しかし、現実はそんなに甘くなかった。日本人が「辛い」と思うものは、韓国では「普通」だ。
 さて、一定の周期で襲ってくる便意に1週間ほど耐えて、その食事を続けると、それからはどんなに辛いものを食べても平気になる。つまり、体が中から改造されてしまうわけだ。これは快感である。
 ここで、「ああ、自分には辛い食べ物は合わない」と言う感じで拒んでしまう日本人は一生、韓国の辛くてうまい食べ物を食えるようにはならないと思う。僕のルームメイトは韓国の辛い食べ物を最初から拒絶してしまう人だった。非常に勿体無い。最初から拒絶するあたりが、北米系白人にありがちな、ある意味での傲慢さかもしれないのだけど。
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2-4. プデチゲ
 韓国の食べ物で圧倒的に辛いのは、「チゲ」と呼ばれる鍋料理だ。日本では、鍋料理は大勢で食べるものだが、普通の大衆食堂であれば韓国では一人前から食べることができる。チゲには何種類かあるが、基本的には、動物系のダシにコチュジャン(唐辛子味噌)とキムチで味付けがしてある。具は野菜だったり、魚だったり、肉だったり、それは、チゲの種類によって異なる。
 僕が食べたチゲは、一番基本的な「キムチチゲ」、キムチチゲにツナが入った「チャムチキムチチゲ」、韓国風の味噌(コチュジャンとは違う。味噌自体は辛くないが、鍋は当然辛い)で味付けがしてある「テンジャンチゲ」、にがりを入れる前のふわふわの豆腐が入っている「スンドゥブ(素豆腐)チゲ」、発祥が米軍基地と言われている「プデ(“部隊”とか“軍隊”の意味)チゲ」の5種類。チゲ自体、何種類あるかわからないが、オーソドックスなものは大体食べたはずだ。
 僕と日本人の友人たちが気に入ったのは「プデチゲ」。そのネーミングも「軍隊鍋」と強烈だが、具材の奇抜さも群を抜いている。
 基本的に味付けは、コチュジャンとキムチでされているのだが、そこに入っている具は春菊、豆腐、もやしといった普通に考えられる具に、さらに「ハム」、「ウインナー」、「チーズ」、「インスタントラーメンの麺」(お店によってはスパゲッティの麺だったりもする)といった鍋に入れるには一風変わったものが入っている。
 ちなみに、韓国のハム=スパム、ウインナーは、日本で食べることができるそれとはちょっと違う。特に、ウインナーについて言えば、日本で食べるウインナーは「パリッ」とした食感とその後にあふれてくる肉汁が特徴だと思うのだが、韓国のそれは、「モソ」とした何とも歯切れの悪い食感が特徴だ。最初は、それに違和感を覚える。味も決して「うまい」とは、日本人は思えない。しかし、プデチゲにはそれが見事にマッチしていて、とてもうまい。
 日本に帰ってきてから、韓国料理店でプデチゲを食べたが、いわゆる日本の「パリッ→肉汁」というウインナーが入っていた。だが、これではなんだかしっくりこない。うまくない。プデチゲには断然あの「モソッ」とした、魚肉ソーセージとウインナーの中間のようなウインナーが最適だ。
 そして、このプデチゲ、なによりも酒によく合う。プデチゲの独特の辛さと、そこから醸し出される風味が酒を進める。特に、マッコリという、いわゆる「どぶろく」との相性は抜群(韓国人には「プデチゲには焼酎でしょ!」と言われたけど)で、週末に汗をかきながらプデチゲで一杯やるのが楽しみになってしまった。
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 慣れないうちは、胃腸をも機能させなくする唐辛子。しかし、この唐辛子という食べ物、食べ続けると、今度はこれが無いと何を食べても物足りなくなってくる。唐辛子の入ってないものを食べたときに、なんだか言いようのない物寂しさを覚えたり、しばらく唐辛子の入っていないものを食べていないと、(これは言いすぎかもしれないが)中毒症状のように唐辛子を欲するようになる。
 唐辛子を食べ続けていた間は、気のせいか、性格も少し過激になっていたような気もする。韓国人の運転マナーの悪さ[5]も、案外、原因は唐辛子かも?
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[5] 韓国人の運転スピードには驚いた(実際、交通事故の死亡率が高いらしい)。その所為か、韓国には暴走族がいない。まあ、普通の車や、バス、タクシーが暴走しているのだから、韓国では暴走すること自体珍しいことではないのだろう。韓国で生活を始めた当初はこの運転スピードに恐れをなしていた。特に、バスに乗ることは敬遠すらしていた。しかし、生活に慣れたのか、唐辛子を食って過激になったのか、「これくらいスピードがないと面白くないな」、などと感じるようになり(実際、僕の韓国人の友人は「バスはスリル」と言っていた)、韓国生活の後半は好んでバスやタクシーに乗るようになっていた。

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3.サブカルチャーと日々の生活など
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3-1.若者文化:音楽
 日本に帰ってきてから、若者文化にまつわる面白い話を2つ聞いた。
 ひとつは韓国人の友達から。「韓国にはサブカルチャーがない」。
 もうひとつは、友人で韓国音楽通のDJから。「韓国の音楽にアンダーグランドはない」。
 前者の発言は、おそらく、「日本のように多様な」という比較論が隠されていると思うのだけれども。
 住んでいたときはさほど気にならなかったが、今になって思い返すとたしかにそうだ、と思える節がある。たとえば、アンダーグラウンドと思えるクラブで、普通にテレビで流れるバンドの音楽がかかる、というのは韓国ではごく当たり前だ。こういう交錯は日本ではあまり考えられない。
 日本で音楽をやっていた僕の感覚で言えば、当時の韓国の音楽は画一的に感じた。基本的にダンスミュージック(極端にショーパフォーマンス化されたもの)で、女性ならばユーロビート系の打ち込みが多く、男性だとヒップホップが多い。しかも、ファッションが一度日本のヒップホップをスルーしているから、どこか違和感を覚えてしまう(ショーパフォーマンスはアメリカなのに、ファッションは日本と言う感じ)。
 韓国にも「クラブ」は存在するが、その質・量・種類は東京とは違うようだ。大体、DJがレコードをまったくかけないというのには驚いた。レコードショップ自体ないので仕方がないのだが。
 また、韓国には「ナイトクラブ」というものがあり、これは日本で言うと一昔前の「ディスコ」と同じだ。僕が行ったナイトクラブはその名も「ジュリアナ」[6]。ソウル一円ではどうやらチェーン展開をしているらしい。
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[6] 日本経済のバブル絶頂期に登場し、バブル崩壊と共に姿を消したディスコ「ジュリアナ」。そこから名前を取ったのか、どうかわからないが、韓国の「ジュリアナ」はソウル一円では複数店舗をチェーン展開をしていた。ちなみに、日本のジュリアナは、お立ち台ギャルと独特の派手さで売っていたが、そこでかかる音楽も面白かった。事実、最近、ジュリアナで頻繁にかけられていた「ハードコアテクノ、ハードテクノ」と称される音楽が最近見直されてきている。それは実は、本場のヨーロッパでは決して一般的でなかった。

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 ここでの、パフォーマンスには2通りあり、ひとつは正装したDJがもくもくと曲をつなげるタイプ。もうひとつは、数人のグループでステージに上がり、曲にあわせてダンスとMCを入れるタイプであった[7]。しかし、いくらパフォーマンスをしても客はそれには目もくれない。なんのためのパフォーマンスなのか意味がわからない、というのが正直な感想だった。また、DJはノンストップでミックスするわけではなく、30分やったら小休止、また30分やって小休止という繰り返し。しかも、VIPルームが存在し、VIPルームの男が階下の女性をチョイスできるという、何ともエイティーズ(1980s)なシステム!恐ろしい!
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[7] しかし、自分のオリジナル曲を演奏するわけではない。

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 また、日本のポップミュージシャンのカヴァーが大ヒットするというのも不思議に思った。僕が滞在していたときはTUBEのカヴァーバンドがヒットしていた。今は誰のカバーがヒットしているのだろう。バンドフォーマットでは面白い音楽もあるようだが、多様性を期待できないような気がした。音楽に関しては、クラブフォーマットのもの、バンドフォーマットのもので見ても、僕には日本の方が合う。
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3-2.映画
 それから、映画。日本でも多くの韓国映画が発表されている。『JSA』や『チング―友へ』などは日本でも有名だ。最近ではとくに『猟奇的な彼女』などは日本でも人気だ。この映画は僕が滞在するちょっと前に韓国で大ヒットしていた映画で、映画のロケ地がちょうど生活圏内だったのと、延世大学が出てくるので、非常に印象に残っている。
 映画もそうだが、音楽のプロモーションビデオも映画仕立てになっているものが多い。とくにバラード。恋人同士の別れがテーマになっているものが多い。そして、「死にオチ」と呼ばれるものがとても多い。必ず主人公のどちらかが最後に死ぬ。死にすぎて、あまり悲しくならないのが面白い(余談だが前述した『猟奇的な彼女』の中でその「死にオチ」をおちょくっているシーンがあるので注目すると面白いだろう)。
 さて、映画の質などはよくわからないので、「映画評論」は割愛させてもらうが、とにかく韓国は日本よりも映画を見やすい環境にあることは間違いない。ヨンサン(龍山)電子街などに行くとビデオCDになった各国の映画や日本のアニメなどが、一本300円程度で販売されている。すべてにハングルの字幕がついている。また、ビデオバン[8]と言ってリクライニングシートに座って少し大型のスクリーンでビデオが見られるところもある。1人ではあまり行かない。2人くらいで行くと映画館で行くよりも安い。24時間やっているところが多かった。ここは密室性があって、恋人同士がよく利用するようだった。
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[8] バン=部屋と言う意味。日本でも有名なPCバン(日本で言う一昔前のインターネット喫茶)をはじめ、ビデオバン、ノレバン(歌の部屋=カラオケ)なんかがある。

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3-3.ピアス
 韓国の若者は日本の若者よりも、ピアスをしている人が多いような気がした[9]。耳はもちろん、口や鼻などにしている人もよく見かけた。
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[9] 日本でピアスの流行が廃れ始めたというのもあるかもしれない。

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 僕が住んでいた新村・イデ周辺は、韓国若者文化の発信地で、服屋や靴屋が多くあり、店員たちもおしゃれな人が多い[10]。イデ周辺にはタトゥショップやピアスショップも何軒かある。
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[10] 韓国のファッションを真似したいとは、僕は思わない。日本のファッションセンスとは違う。

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 ピアスは大体1個1万ウォンでつける。所要時間は約30秒。あっという間だ。ただ、ピアスショップの衛生観念は少し信じがたい部分がある。無造作に取り出したニードルに軟膏をつけていきなりプスッとやる。それと、おそらく日本のピアスショップならあるであろうフォローはない。
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3-4.コピーの服
 韓国のブランドのニセモノを作る技術は世界でもトップクラスだ。その品質はSS(スペシャルS)にランク付けされていると聞いたことがある。
 韓国でコピー商品が特に出回っているのは東大門市場(トンデムンシジャン)だろう。 何と、ここには日本の最新ストリートブランドの服を扱ったエリアがあり、日本で売られている価格のおよそ、3分の1以下の値段で売られている。日本の服屋も多く買い付けに来ている。そのため、市場の店員には何人か日本人(しかも、20代前半の!)がいる。  ここに行ったばかりの頃は、単純に問屋街なのかと思っていたのだが、通うにつれ、コピー商品を売る闇市場であることに気づいた。
 印象的な言葉をいくつか。
 この市場で大量に服を扱う日本人業者が、服を生産したと思われる韓国人に
「お前、こんなにすぐほつれたら、わかるだろう!」
 また、韓国人のたどたどしい日本語。
「オリジナル一着買って、私コピー作った。本物より精巧ね」。
 意味がわからない。
 日本の業者は多い。このコピーを日本に帰って倍以上の値段をつけて売っているのかと思うと、正規の取り扱いショップ以外信用できない。ヤフーオークションでストリートファッションに関して、それなりのブランドはトンデムン発だと思って間違いない。
 この市場、服だけではなくアクセサリーのコピーも多く売っている。クロムハーツなどのコピーも売られていて、通常ならば10万円くらいするものが、8万ウォン(約8000円)で売られていたりする。コピーだから当然なのだが。
 これは友人から聞いた話だが、それを手にした日本人の業者が、こうつぶやいたという。
「あぁ、これなら、14万(円)で売れるな」
 ……うーん。
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 2002年の9月に再び韓国へ訪れる機会があり、このトンデムンにも約半年ぶりに行ってみた。状況は変わっていない。アフリカ人が多くなっていたのが印象的だった。韓国人とアフリカ人が日本語で交渉している様子はとてもシュールだった。
 ちなみに、このコピーの服が出回っているのは、おもに「ヤフーオークション」や一部の古着屋。しかし、素人には見分けがつかないほど精巧なのでいかんともしがたい。
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3-5.テコンドー
 韓国の格闘技として有名なものに「テコンドー」がある。テコンドーとは、空手をベースに独自の発展を遂げた足技主体の格闘技である。とにかく蹴りのバリエーションは豊富だ。
 テコンドーには現在2つの流派がある。ITF(国際テコンドー連盟)中心の北朝鮮テコンドーとWTF(世界テコンドー連盟)中心の韓国テコンドーである。テコンドー創始者は韓国人だったのだが、金日成の支持者だったため、韓国にいれなくなりカナダに亡命し、ITFを設立した、という経緯がありこのような形になっている。一般的に前者が武道の要素が強く、後者はスポーツの要素が強いと言われている。
 ルールは若干異なるが、基本的に蹴りは腰から上、パンチは肩から下にしか出せない。オリンピックで見ることができるのはWTFテコンドーで、防具をつけたフルコンタクトスタイルである(ちなみに、ITFテコンドーは、防具はつけずライトコンタクト(軽く当てると言うこと。しかし、実際はそんなことはないらしい)と言うことになっている。飛んでからの蹴りのポイントが高いので空中戦が多いらしい。ちなみに昔K-1に出ていたテコンドーチャンピオン・ピア・ゲネットはITFのチャンピオンである)。
 日本には様々な格闘技が林立するが、韓国では国技テコンドーを中心に数種類の格闘技が中心だ。韓国でテコンドーを経験している人の数は国民の約8割とも言われており、とにかくテコンドーは盛んだ。大学にも当然テコンドー部があり、延世大学には留学生向けの道場があった。格闘技に元々興味のあった僕もこの道場に入門することにした。
 この道場の練習は月・水・金の朝と夜と、土曜日の午前中にあった。留学生向けの道場なので色々な国の人がいた。テコンドー初心者の韓国人もいた。僕は基本的に、朝と夜に参加したので、短期間だったが、テコンドーの基本は一通り学ぶことができた。
 テコンドーをはじめて1週間目にテコンドーナショナルチーム(パフォーマンス部門)のパフォーマンスを見られたのも大きかった。彼らの動きは人間業じゃなかった。
 帰国する直前に昇級試験を受けて、白帯から黄帯をもらった。ちなみに昇級のシステムは型の演舞と、5級以上は試合形式で昇級が決められる。型はテグと呼ばれる8個の型があり、テグをマスターすると初段(黒帯)である。黒帯まで至るには順調にいって2年はかかる。
 余談だが、テコンドーは日本に帰ってきてからも少し続けたが、札幌の道場の雰囲気がよくなくて自然と足が遠のいてしまった。
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 2001年の8月から翌年の1月まで韓国短期留学を経験した。この文章は、そこで見聞き、体験したことを思いつくままに記したものである。1章は、時系列的に最初の3日を書いた。なぜだろうか、最初の3日の記憶は今も鮮明に覚えている。2章、3章は時間を無視して書いた。誤解をしていたり、現在とは状況が異なることがあると思うが、ご了承いただきたい。
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