インド 国立ヒンディ語学院デリー校 (ヒンディ語) & NIIT (プログラミング) & British School of Language (英語) (藤本 Vol.2)

アジア

藤本剛 インド留学体験記

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<デリーの朝はこんな風に始まる> ~デリー南部の住宅街でのくらし~

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午前7時。デリーの朝は突如として始まる。隣の部屋のベランダの窓に、新聞が景気のいい音を立てて投げ込まれる。「バンッ!」丸めてゴムでとめた新聞は弓矢のようになり、時折窓ガラスまでもぶち破る。そんな時は「ガッシャン!!」 それが目覚まし時計だ。隣の部屋とは薄い板のようなもの一枚で仕切られているだけなので非常によく聞こえる。それを皮切りに物売りや工事の騒音が響く。朝から騒々しい。
北インドの12,1月の朝は想像以上に寒い。0℃近くまで下がることもある。軽く腹筋と腕立て伏せをして体を温め頭を多少すっきりさせてから思い切って寝袋を出る。ベッドはあるが寝具などというものは存在しない。頼りない蛍光灯を点けると吐息がほのかに白い。
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<お茶を作ってみる> ~ブラックもしくはベージュ~

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テレビをつけてから部屋の前にあるキッチンに行ってお湯を沸かす。取手のとれたガスコンロのコックを器用にひねってマッチで点火すると「ボンッ」と強火的に燃えてくれる。そしてこのガスコンロの選択肢は強火以外には存在しない。
この家がある南デリーで特に問題になっている汚染された水を鍋にたっぷりと入れて、十分すぎるくらい沸かす。いくら沸かしても沸かしすぎるということはない。菌が死滅した後、ティーポットに注いで紅茶を作る。場合によっては、まだ葉っぱを入れていないのに、お湯の色が茶色がかっていることがある。そんな時は潔く諦める。
おいしいダージリンティーが手ごろな価格であるので贅沢ではある。しかし同じ家で独立的共同生活をしている20人ほどのインド人、ネパール人、スリランカ人の学生、勤め人は決してブラックティーは飲まない。高価だからというよりも長い間輸出するだけの商品だったので、飲む習慣がないようだ。これが中学の時に社会で習った商品作物というやつか。よって、どこにでも売っているわけではなく、購入する場所も限られている。リプトンのティーバッグは街中に溢れているのだけれど。
気候が影響しているのか、デリーではブラックティーよりもチャーイの方が心にも体にも染みる。それなのにどうしてわざわざブラックティーを飲むのかというと、僕の作るチャ-イはなぜかたいへんマズイのだ。したがって葉っぱを入れれば完成。
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<ITが発達しているって本当?> ~巨像はITで動き出したのか?~

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インドのダージリンティーが原産国のインド人にはほとんど消費されないのと同じように、優秀なインド人エンジニアが開発したソフトウェア商品も高価すぎてインド国内では消費されていない。そんなことも起こっている。IT先進国だと持ち上げられる事もあり、渡航前にはインドのIT産業に対して漠然とした期待を抱いていた。しかしインドのITは全体としては遅れているのではないだろうか、というのが生活した後の素直な感想である。
電話線さえ満足に引けない国をどうしてIT大国だと言えるだろうか[1]。ITと呼ばれるものには大きく分けて2種類ある。ハードウェアとソフトウェアだ。前者が実際に触れるもので、後者はそうでないもの。インド人の技術でアメリカをはじめ世界的に注目されているのが、後者のソフトウェア。ハードに比べて開発コストが低いというのも、インドで発展させることができた理由の一つではないだろうか。そう、インドのGDPの8%を占めるソフトウェア産業は先鋭的だ。

[1] 下宿先には受信専用の電話があったが、しばしば混線した。デリーには至る所に電話屋があったので、こちらから電話を掛けたいときはそこへ行った。公衆電話は見かけなかった。最近では携帯電話の普及率が凄まじい。プリペイド式の携帯で、NOKIA、LG、SAMUSUNGなどが主流。

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インドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロールのITパークには[2]、インフォシス、ウィプロ、IBMなどといったIT関連のトップ企業が自家発電でがんばっている[3]。ここで働くインド人の多くはアメリカを中心に海外で高等教育を受けたエリート達である。敷地内の雰囲気は、ここが本当にインドなのかと疑ってしまうほどに先進国的に洗練されている。

 [2]バンガロールに関して http://member.nifty.ne.jp/umezawa/index.html
[3] インドでは停電が多い。発電所のキャパシティが少ない上に、劣悪なインフラが原因の漏電も多いからだ。おまけにホームレスによる盗電も多い。エンロンが電力所建設事業に参入を試みたが、国益に深く関わる分野であるためかインド政府との交渉は決裂したようだ。夏にはエアコンの大量使用のため頻繁に停電が起こる。

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ここで革新的なプログラムの発明がなされていないわけではないが、彼らが主に取り組んでいるのは本社からの下請けである。要はアウトソーシングなのだが、インドを下請け先にすると2つのメリットがある。それは時差によってアメリカと昼夜が逆ということが1つ。2つ目は、英語という共通言語を使う点である(英語のメリットについては後にもう少しくわしく掘り下げたい)。ただしインド人技術者を雇うコストは安くない。
また海外で高等教育を受けた後、インドには帰らずにH1-Bビザ[4]を取得してそのまま海外で働くエンジニアも数多くいる。今までは彼らのような先進国永住型のエンジニアがマジョリティであり、その中心地の1つが本場カリフォルニアのシリコンバレーであった。ここで起業するエンジニアの3人に2人はインド人だと言われるほどで、ホットメールや金融システムのソフト開発に深く貢献している。しかしここで注目したいのは、近年このエンジニアの回帰現象が起こっているという点だ。アメリカでできたのだから、母国インドでできないはずはないと言うわけだ。インド政府も彼らに優遇措置を計り、これ以上知識のドーナツ化現象が進行しないよう取り組んでいる[5]。

 [4] H1-B1ビザは、IT技術者の人材不足を補うために、IT関連外国人労働者へ特別永住権を提供するビザの俗称。昨年度の発給を受けた6万5000人の内訳は,インド人が44%,中国人が9%,以下英国人,フィリピン人,カナダ人と続く。これらはほとんどプログラマ/SE。シリコンバレーの人口の40%が中国系/インド系になる日も近いといわれる。
[5] ケララ州政府は、4つの港湾地域に中国方式の経済特別区制度を導入する。経済特別区とそれに付随する空路開発地域は、インフラが整備され様々な優遇措置の恩恵を受ける。日本労働研究機構(JIL)のホームページ参照。http://www.jil.go.jp/jil/

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<English>~イギリス訛り? いやインド訛り~

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インドはアメリカに次ぐ、世界第2位の英語国家である。と、言われている。英語を話せると思っている人ならば、インド国内に8億人ほどいるのではないだろうか。インドの都市部では英語がたいてい通じる。インド特有の発音では弁護士の「lawyer」を「ライアー」と発音する。これじゃあ、嘘つきだ。このような独特の「r」の発音が強い訛りが人によってはあるが、ネイティブの人もそれほど苦労していないようだ。訛りに目をつぶると、欧米の英語圏の人々にとって自分と同じ言語を話す人間が自国よりも多いインドはそれだけで魅力的である。このメリットが具体的に活用されている例で、コールセンターが挙げられる。アメリカのコールセンターに電話をかけると、実はインドに繋がりインド人が英語で対応していくという事業が盛んである[6]。これがアメリカ側に大幅なコストダウン、インド側に雇用の創出をもたらしている。

 [6]『HOT WIRED JAPAN』参照。
http://www.hotwired.co.jp/news/news/business/story/20021025105.html

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アメリカのほとんどの会社では、駐在員としてタイのバンコクへ行くほうがインドへ行くよりも海外勤務手当てが高い。インドでは英語が通じるという理由からだ。アメリカ式のシステムを取っている日本の日経新聞はそれに倣っているので、在外手当てはインド勤務のほうが少ないらしい。
インドにある欧米の会社の現地トップはインド人であることが多い。いわゆるNRIといわれる人々で、インド国籍を持ちながら大概はアメリカで教育などを受けた流暢に英語を話す者達だ。英語を背景に、特にアメリカなどではインドの発展を楽観視して煽り持ち上げる傾向がある。しかし日本はもちろん日本語文化圏なので別の視点を持つ必要がある。そして今現在その視点は確立されていない。
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<インドへの企業進出> ~元気な韓国企業~

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インドでの事業はすべてインド人に任せるほうがうまくいくと言われているが、日本人が間に入って失敗した例は残念ながら多い。しかし成功した例もある。スズキ自動車はインド市場におけるパイオニア的存在で、市場シェアが7割を超えた時期もあった。
新たな市場では常に日本の後塵を排してきた韓国も勢いがある。背水の陣でやってきたようで、日本の企業とは気合が違う。LG、HYUNDAI、サムスンなどは広告費が韓国の本社から直接ドカっと下りるらしく、TVコマーシャルの3分の1前後はこれらの会社が占めている。
インドはこのように日本企業が韓国企業に圧されている代表的な場所でもあるのだ。
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<テレビ・ビデオ事情>

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朝、学校に行くまであの紅茶を飲みながらテレビを眺めることが多かった。朝放映されているの主な番組は、ヨガ・祈り・ダンス・ニュース。迷わずニュースを選ぶ。他のものはいつ見ても代わり映えしない。一瞬見るだけでもうんざりした。CSの衛星が入るので254チャンネル映るということになっている。実際に見られるのはその5分の1ほどだが、地上階に住んでいるこの家のホストファミリーが254チャンネル見られるというのだから見られるのだろう。ひどい時は、このひどい時が最も頻繁なのだが、数チャンネルしか映らない。
子供達の間ではディズニーが人気を博していた。このディズニーほど、世界中の人々の心の中に広く浸透している思想はありえない。仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、まずディズニー在りし、なのだ。宗教は精神的安定を与え、ディズニーは夢を与える。このようにディズニーは地球的文化なのだから、著作権についてもう少し寛大になっても良いのではないだろうか。
その著作権=知的財産権をひどく侵害している場所がある。それがアジア最大級の電化製品ショッピングモールの「パリカバザール」である。このバザールでは、海賊版のCDが大量に売られていた。このディズニーもDVDやVCDで見ることができた[7]。値段は安く、それに比例して品質も劣悪。絵に描いたような「安かろう、悪かろう」の例である。映画館で映画を隠し撮りしたCDまで売られていた。人の頭まで映っていてたいへん見辛い代物である。ちなみにまだ公開前の映画のCDまで買うことができた。

[7] インドではVHSは流通していない。市民がビデオを入手できるレベルまで経済発展する前に、CD-ROMへのより便利な技術への革新が起こったからだ。

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<新聞>    ~情報収集はこれに限る~

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次に隣の部屋のベランダに投げ入れられた新聞を読む。ヒンディー語の新聞にはさすがに手も足も出なかったので英字新聞だった。『Times of India』『Hindustan Times』の2紙を読んでいた。そのうち前者はデリーだけで150万部の売り上げを誇り、世界でも第3位の規模の英字新聞である。後者はその名の通り宗教色が色濃かった。
どのように濃いかというと・・・・・・インドにはヨーロッパのフリーメイソンのような存在のアーリアサマージという組織がある。ヒンドゥ-至上主義を掲げている極端な組織で現在インドの政権を連立ではあれ担っているBJP政権の母体。またBJPは今回の選挙でも政権を握る可能性が濃厚である。そしてこれらの政党が新聞を通して読者を上手に洗脳していた。記述に誇張が目立った。
そして僕が接していたほとんどのインド人は素直にそれを信じていた。彼らにかかると寂れたデリーの繁華街もニューヨークのウォール街にされてしまう。
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<インド人はウソツキ?> ~その場よければ全て良し。錯綜する情報~

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新聞の誇張は嘘つきだと叩かれることの多いインド人の気質とも関係があるのだろうか。彼らは本当にウソツキなのか。
例えば、「お前はどこから来たのだ?」「日本だ。」この会話を交わした後二言目には、「日本人は正直だ。」といわれる事が多々あった。その都度、「日本人が正直なのではなく、インド人が嘘つきなのだ。」と言い返していたのだが。
インドで道を聞くときは、最低3人に同じことを聞かなくてはならない。適当なことを言う奴が多いので、多数決で決めるのだ。ただし3人3様の方向を指すこともある。この姿勢の根底には、「知らないというとバカにされるのではないか」といった感情が横たわっていると推測している。インド人は日本人に比べてあからさまに他人をバカにしたり、見下したような発言や態度を示すことが多い。それとはまた違った理由で、お金に関してもよくウソをつく。こちらは経済的貧困が原因なのでよりシビアである。このウソは、1991年の経済自由化に伴って物が溢れ、貧しいもの達の間でさえも貧富の差が広がってからより悪質で陰惨なものになっているようだ。例えばタクシーなどに乗るときは、必ず運賃でもめることになる。交渉が難航することはもとより、決定した値段を何かと理由をつけて吊り上げようとするのだ。こういうことは大抵どの旅行記やガイドブックを見ても書いて言うが、実話である。最初から何も信用できるものはないとわかっていたので逆に楽だった。
ただし例外もある。学校で知り合った人、同じ下宿にすんでいた人、こういった身元のはっきりした人々とはある程度しっかりした信頼関係を築くことができた。インドには損得勘定を迅速かつ正確に行うことができる人が多い。こいつは騙したほうが得か、きちんとした友人にした方が得か瞬時に見極める。よってギブ&テイクが働いている関係はひとまず安心できた。
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<アイデンティティー・クライシス> ~自己は何に依存しているのか~

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デリーにいる時、自分のアイデンティティーがひどく国に依存している事に気付かされた。日本や日本人をバカにしたり侮辱したりする発言に対しては、ついカッとなってしまうことがあった。自分で言うのは良いのだが他の国の人に言われると腹が立つのだ。ちなみに生まれてから高校までの18年間を過ごした大阪府に関して、侮辱的な発言を受けても何も感じなかった。
映画館切符売り場で、「お前は中国人か?」「いや、日本人だ。」「どっちでも似たようなものだけどな。」と嘲笑うように言われたことがある。この時ばかりは本当に腹が立った。映画が終わってから、真っ直ぐにそいつのところに行って口論した。ケンカも映画の内容を全く覚えていないのでもったいない事をしてしまった。
後に遠藤周作の書いたエッセイの中に似たような記述を発見した。彼のフランス留学時の体験であったが、僭越ながら共感を覚えた。
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<映画> ~唯一にして最大の娯楽~

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デリーの娯楽はこの「映画」だけだと言っても過言ではない。
街中の映画館で上映されているのはムンバイのボリウッド映画とハリウッド映画。その2つを合わせた数はものすごい。製作本数だけならハリウッドよりもボリウッドの方が多いのだが、質の劣悪なものがマジョリティを占めている。その大衆向けボリウッド映画を上映している映画館はあちこちにあった。ヒンディー映画は公開される前から映画の主題歌のCDやテープを販売しているので、それを覚えてきた客たちが上映中に大合唱することもある。
これには理由がある。 それは言語の壁。ボリウッドからは基本的にヒンディー映画をインド全州に向けて発信しているのだが、よく知られているようにインドは多言語国家である。方言程度の違いの言語もあるが全く違うものもある。みんながみんな高度なヒンディー語を理解できるわけではない。ということで、どうしても単純明快、舞踊歌謡といった映画が広汎してしまう。
渡航前にゼミ指導教員に薦められたサタジット・レイなどは芸術的評価も高いらしいが、芸術的な映画がインドで商業的に成功する例は極めて稀である。しかし近頃の若くて教養のある人は、歌って踊ってばかりのヒンディー映画とは疎遠になっていっているようで、その穴埋め、十分すぎるほどの穴埋めとしてハリウッド映画に人気が集中しつつある。 テレビ番組の中に、ひたすらヒンディー映画を流すというものがある。映画の途中で突然プツンと番組が途絶えることもしばしばだったので、あまり使えなかった。上映機器の故障か。
この街には香港のSTAR系列のPVR[8]というシネマがあちこちに映画コンプレックスとして乱立し始めている。時々ここでやっているハリウッド映画には中国語の字幕が付いていて目障りだった。加えて、映画館の中は上映中でもうるさい。隣の人と話す人や携帯電話で話す人がいて迷惑だった。ただ映画終了後のリアクションはおもしろかった。つまらない映画だったらブーイング。良い映画には惜しみない拍手を送っていた。これによってデリー市民の嗜好に触れることができた。またこの映画館を中心に外資系のショッピングコンプレックスができ、裕福な家庭の若者と彼らに群がる乞食の溜まり場になっている。

 [8] PVR Movies
http://pvrmovies.com/

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<乞食> ~インドの悪臭、あるいは・・・・・・~

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このシネマコンプレックスにも、たくさん物乞いがいた。ここの乞食は全て子どもである。どうして彼ら乞食達は生きていけるのだろうか。
まず大量の乞食が生活していくのに十分なほど、それだけインドは豊かだからである。また善悪は別として、乞食が生きていけるだけのチャリティの精神的土壌もここにはある。最近のインドに蔓延りつつあるグリーンピースやキリスト教徒にも是非見習ってもらいたい。しかしこのチャリティー文化がなくならない限り、インドから物乞いが消えることはないだろう。
体重計屋という商売がある。一日中、自分の前に体重計を置いて体重を計りにくるお客さんを待つという仕事である。彼は資本家だ。体重計1つ持っているだけで、ブルジョワ階級として生活することができるのだ。でも、それを盗まれたりしたら、ただの物乞いになってしまうというリスクも抱えている。
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<シャワーを浴びる>

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シャワーを浴びる。もちろんバスタブなんかない。トイレの便器に隣接している上、何も仕切りがないので勝手が悪かった。おまけに洗面台は焼け焦げていた。もう一つおまけに便器の後ろについている貯水タンクからはトイレの水は流れなかったので、バケツに水を汲んで流していた。
寒いので準備体操のヨガを軽く行いからだが温まったあと、いよいよシャワーへ。蛇口をひねるときに少し痺れる。明らかに漏電しているのだ。感電しやしないかとドキドキする。シャワーだとは言っても、水が滝のように一つの放物線を描いて流れ落ちてくるだけという代物である。
お湯は3分くらいの間しか出ない[9]。それ以降はどんどん冷たくなっていく。一心不乱に体を洗ってさっと出る。

[9] お湯は高級品。貧しい人は比較的暖かい昼に水浴びをしていた。しかしデリーよりもずっと寒いカシミール地方の貧しい人々は冬の間は体を洗わないらしい。

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<ヒンディー語学院へ行く> ~歩いて5分の距離~

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ヒンディー語学院に行く準備を整えてから家を出る。学校まで歩いて数分の距離だ。持っていくものは特にない。それでも一応、教科書のようなものとノート、ペンをヨレヨレのかばんの中に放り込んでいく。
飼い主のように目が「カネ」になってしまった犬が狂ったように吠えてくるので、こっそり蹴っ飛ばす。放し飼いなので家中に糞を撒き散らしていた。いくら犬と言えども迷惑極まりなかった。そのうえ誰も掃除しようとはしなかった。
外に出ると霧が立ち込めている。ひどいときは5メートル先も見えない。この記述は大げさではなく客観的事実である。インド人に聞けば「視界ゼロ」「何も見えないあるよ」くらいは言うだろう。これにコーランを読む祈りの声なんかが聞こえてくると真に幻想的であった。が、迷惑な霧である。それでも車はいつもどおり走っているので交通事故が多い。
デリーでは極端に信号が少ないので、交差点ではクラクションを高らかに鳴らして自己(事故?)を主張する。よって始終クラクションの騒音で溢れている。
交通渋滞もひどい。信号がないということは横断歩道もないので、道路を横断するのは一苦労である。デリーで生活するには何よりもこの車に注意しなければならない。たとえ交通事故に遭っても、周囲の助けはまず期待できない。交通事故に遭って血みどろで転がっていても大概のインド人は助けようとはしない。ただ野次馬として眺めるだけだ。
そんな道を歩いて学校に行く。
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<交通手段> ~試されるリスク管理と金銭感覚~

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デリーにおける主な交通手段
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(Ⅰ) サイクル・リキシャー[10]
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自転車に2人くらい座れる後部座席と屋根を付けた乗り物。人力なので限界があるが、短い距離の移動の時に便利。裸足で自転車をこぐリクシャーワーラー[11]も少なからずいる。燃料?は水など。

[10] リキシャー=力車。日本語からヒンディー語に入った唯一の言葉。
[11] リクシャーワーラーは運転手のこと。英語が通じない人が多い。場所がわからないくせに出発しようとする時もある。1ルピーの争いで最も長時間もめることができる。運転手は金、客はプライドのために必死である。誰も損はしたくない。

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(Ⅱ) オートリキシャー
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原付バイクのエンジンを搭載し、屋根と後部座席を付け足したもの。最も頻繁に見られる。黄色と緑の鮮やかな色彩の乗り物。料金は走行距離によって決まり、専用のメーターで料金がはじき出される仕組みになっている。しかし故障や、より多くの運賃を搾り取りたいという理由から使いたがらない運転手が多い。よって、熾烈な運賃交渉をその都度しなければならない。ただし、インド人はメーター制以外ではまず乗らない。観光地ではマージン欲しさに土産物屋に連れて行こうとする運転手が多い。
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(Ⅲ)タクシー
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インド産のアンバサダーを黄色と黒でペイントした車。タタ[12]のアンバサダーはフォードで言うところのT型フォードのような存在。モデルチェンジ一切なしの古典的車。運転手にはシク教徒が多い。これもメーター制。高級ホテルかタクシー乗り場で捕まえることができる。流しは少ない。

[12] タタはムンバイを拠点に活躍するパースィー教徒の財閥。ビルラと並ぶインド二大財閥の1つ。タタモータース、タタスチールなどが中軸。

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(IV)バス
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複雑な路線をいい加減な時刻に基づいて走っている。停車時間が極端に短い上に完全には止まらないので急いで飛び乗る。座席は左半分が女性専用、右半分が男女共用。混雑時に男性が左側に座っていると、女性に「あご」で退くように指示される。ラッシュ時の混雑は悲惨でスリや痴漢が多いうえに、降りたいバス停に着いても動けない。進行中に運転手がスピード違反のためか、警察に捕まって帰って来なかった。ガソリ切れのためか、乗客みんなで力を合わせてガソリンスタンドまで押したこともあった。運転手とは別に料金徴収係が後ろに座っている。よく間違えて(間違いなのか?)、二度、三度と運賃を請求してくる時がある。
サイクル・リキシャー、オート・リキシャー、タクシーの順で運賃が高い。バスが一番安い。並べた順番は値段ではなく、事故が起こったときに死ぬ確率の高い順番。車道を自転車が走っているのだから当然危険である。お金をケチると命が危険にさらされる。
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(Ⅴ)車の相乗り
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グルガオン[13]では普通の乗用車に簡単に相乗りができる。一般市民の車なので値段は交渉制。安く行けることも多いが、何しろ知らない人の車に乗るのでリスクは高い。人をよく吟味しなければならない。

[13] グルガオンは、デリーに隣接する特別経済特区で、いくつかのショッピングモールが集中している。ベットタウン的な要素も持っているが、車がないと交通の便が悪い。デリーとは違う都市なので、タクシーなどではダイレクトに行けない。バスの本数も少ない。デリー中心部から約45分。

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(Ⅵ)地下鉄
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デリーの北東部にはなんと地下鉄が走っている。設備の質も日本とそれほど大差ない。現在のところ大部分が建設中であるが、2004年中には全線開通予定。交通渋滞緩和の切り札となるか。珍しく建設が予定通り進んでいる事業でもある。
例外として、牛車、馬車、象、らくだが車道を走っているのを見かけるが基本的に乗れないし、実用性を欠く。しかしこれも交渉次第。
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<街角の風景>

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道を歩いていると、元気な物乞いや道路上で人生を全うしたホームレス、突然踊りだす人や、歌いだす人、頭のねじがポロッとはずれて叫びだしてしまう人などにも出会うが、デリーの人はそれらの人々に対して比較的無関心である。
しかし、どこかで議論や口論が始まるとたちまちのうちに人垣ができる。どちらが正しいか決める陪審員たちだ。人が溢れていて何かと人垣ができるデリーだが、中心から離れた位置から神妙な顔をして覗いている人に、その人垣の原因を聞いても大抵わからない。目的もよくわからずに行列があったからとりあえず並んでみた、という日本のおばちゃんのようだ。
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<朝食2> ~紅茶に続き、口にするものは?~

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途中の屋台でにんじんジュースかオレンジジュースを一杯引っかけていく。こういった屋台の飲み物は、体に良いのか悪いのかよくわからない。特に暑い季節に重宝され、汚い発泡スチロールの箱の中に入っている砕いた氷が原因でお腹を壊す人が多い。季節にもよるが他に、りんご、ざくろ、サトウキビ、パイナップルなどもあった。このジュースに砂糖やマサーラーを入れてくれる。言うまでもなく、そんなもの入れないほうがうまい。ニヤニヤしながら入れてくれる。別にニヤニヤする必要はないがコップをもう少し洗ってほしかった。何にでもマサーラーを入れているとバカになる。だが僕は大好きだ。
次は八百屋さん。ハエを追い払うのにたいへんそうだ。ここでもまた値段の交渉して、朝ごはんのバナナとオレンジを買って学校に持っていく。さすが農業大国だけあって大抵の品は日本よりも安く(インドの物価に照らし合わせても割安だった)買えたが、油断すると1つ少なかったり、腐ったやつを渡される。相手が笑顔のときは要注意である。たかだか10円にも満たない争いだけに熾烈で悲惨である。バナナ一本で30分くらいもめることができる。誰もが暇なのだ。
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<チャーイじーさん> ~人生、お茶にあり~

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学校に到着後まず行くのは喫茶室だ。
喫茶室といっても12畳ほどの部屋に大きい机が1つと、教室でも使っている小さな机が横に付いた椅子が7~8個、そしてキッチンがあるだけの殺風景な部屋でチャーイ以外のメニューはこれと言ってない。ここにはいつも笑顔が素敵で、ボケているようでいて実はしっかりしているチャーイじーさんがいる。彼の作るチャーイは絶品である。調理方法はいい加減なように見えて、実は綿密な計算が隠されているのだろう。
休み時間、授業中、チャーイじーさんだけはいつでも教室に出入り可能だった。エントランスフリーってわけだ。チャーイのデリバリーが可能であった。しばしばカップを返した返してないでもめていた。何語で会話をしていたのかがよくわからない。「言葉は気合で通じる。」ということが身に沁みてわかった。そして通じないことも多々あるということも手痛く学んだ。
ちなみに普通の紅茶に生姜とたっぷり目の砂糖とミルクを入れると、それらしいものが簡単にできる。
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<ワークシェアリング> ~この分野では先進国~

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ここで簡単な食事をすませ、チャーイを飲みながら予習をしたり係の人と話したりする。係とは何か。
この学校ではワークシェアリングが徹底されている。一人一人の仕事があまりにも細かいので色んな係りの人がいる。例えば、庭掃き・トイレ掃除・コピーとり・見張り・部屋掃除・床拭き、などなど。それぞれがそれぞれの仕事以外はほとんどやらない。各自、朝の30分ほどで一日の仕事を終えている。
インドではたとえ餓えてはいなくても貧しい人は確実に存在する。しかしこれだけの仕事で暮らしていけるほど豊かだという一面も持ち合わせている。
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<貧困> ~世界の貧困国の代表者なのか~

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インドの貧困者は全土で約3~4億いると言われていて、それは世界の貧困者の半分の数を意味する。さらに付け加えると、ウッタルプラデーシュ州(デリー)、ビハール州、マディヤプラデーシュ州の3州にインドの貧困の約半分が集中している。つまりこの地域にはWHOから世界の貧困者だと認められた層の約4分の1が暮らしているわけだ。
貧困=飢餓というイメージは、インドでは必ずしも正しくない。何の調査だか忘れたが、インド人の7割は生まれ変わったらまたインド人になりたいらしい。来世への希望を胸にのらりくらりと生活している人を貧しい人だと言えようか。食べ物はたくさんある。交通インフラが改良されれば農作物の輸出国としても有望だろう。
WTOの貧困の基準は所得である。お金である。食物が豊富なインドはそれらが相対的に安い。そして先進国と同じような感覚でインドの村のマネー経済が発達しているとは思えない。また農民の盗電は政府の間に根強く残っている重農主義によって黙認されているので、電気代さえ要らない。少ない収入で十分暮らしていけるのだ。
インド政府自体もこの「貧困」を本気で解決する気はないようである。うるさくない貧困者がたくさんいればいるほど国際社会でのインドのプレゼンスは上がる。貧困国の代表だ、と。選挙前に多少手をうってその場しのぎ的に彼らの不満を解決していればいい。誰も困らない。
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<教育> ~配分の不均衡~

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識字率も極端に低い[14]。インド政府の5カ年計画の一環で、2010年までに識字率を100%にするという計画があるが、人口の国勢調査が○万人で終わっており大量の戸籍さえ持たない人がいる状況でどうしてそれが可能だろうか。

[14] 識字率は65.4%(01年国勢調査)。外務省ホームページ参照。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/data.html

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なぜ書けないのか。学校がない、教育サービスの不均等といった問題があるが、結局のところそれは必要がないからだ。自分が接する人みんなが書けない。書ければその集団の中で多少のアドバンテージにはなるのだが、今の生活に満足している人々にとってそれほど学習意欲を駆り立てるものではない。それよりも、みんな書けないから安心。誰も取り残されてなんかいない。
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<開発援助> ~今までの開発援助は果たして有効だったのか~

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短期的に見て必要のないものが発達していないだけであるので、先進国の独りよがりの援助は失敗に終わっている。
学校を作るというのがそうだ。インドの村の子供たちは学ぶ大切を知らない。そして日本などの先進国に比べると、そもそも学ぶ事の重要性はずっと低いのかもしれない。「将来、楽をしたいがために働く、あるいは勉強する」この論理はうまく働かない。こんな論理で、すでに楽をしている人々のモチベーションを上げるなんてできるわけがない。
先進国の基準で考えると失敗する。だから近くにたとえ無料の学校を作っても子供たちは行かない。ノートが配られればそれを売ってしまう。無料でも親たちは学校へ行かせたがらない。自分の子供を働きに出すか、物乞いでもさせればプラスになるのだから。
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<生まれ> ~ヒンズー教の根幹を成す思想~

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こういう子供が悲惨かというと、決してそうではない。こういった子供は友達同士みんな似たような生活を送っている。どうして自分だけ、などとひねくれるようなこともない。
彼はそこに生まれた。塀の中に生まれるのと(マハーラージャー)、外で生まれるのでは人生は180度変わってくる。ヴァルナやジャーティーといったカースト制度の高度な発達からもわかるように、「生まれ」というものがたいへん重要視される。仏陀のことばに「行動によってバラモンになれる」というものがあるが、それはあくまでも来世での話である。
この「生まれ」の概念を世界最長の叙事詩マハーバーラタやラーマーヤナなどを通してヒンドゥー教の教えとしてさらに刷り込んでいく。「どうして僕は~なんだろう?」という疑問に最初から絶対的な答えが与えられている。職業も世襲制であったので何になるか悩む必要もない。ほとんどの人間は何にもそれほど向いていないし、向いていなくもない。人生の早い段階で天職だと自分が思い込めるものを見つけて、それに対して努力をしていくのが最も効果的なのかもしれない。
宗教はその人の思考を停止させてしまう可能性もあるし、それは基本的には良くないことだと思う。しかし、信じ切っている人はとても幸せそうだった。そうは言ってもこのあたりの宗教観は劇的に変わってきているので、注目すべき点だろう。
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<ヒンディー語学院とは?> ~隠れキリシタン?の地下壕の隣[15]~

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ヒンディー語学院の話。正式名称「Kendrya Hindi Sansthan」、インド国立中央ヒンディー語学院デリー校。午前中はここで授業を受ける。「reading」「listening」「speaking」の3コマだ。1コマ45分。僕のクラスは、初級コースの100クラスだったのだが、ほとんどの授業はゆったり和気あいあいと進行していった。基本的には会話中心である。

 [15] 学校の隣にある建物の地下には、キリスト教徒が集まる部屋があった。100畳近くあるその部屋は、ピアノや椅子、黒板などが置かれていて、教会の役目を果たしていた。ここには南デリーに住むキリスト教徒、主に外国人が日曜毎に終結していた。

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大きな祭りの前後の出席率は生徒、先生とも極端に少なかった。来ていてもさっぱり覇気がなかった。普段もそうだが、携帯電話に出るために授業中の教師が席を外すことが度々あった。迷惑極まりなかった。他にもいろいろな理由で学校を教師が休んだ。一日中、休む理由ばかり考えているのではないだろうか。事務の人間はもっとひどかった。彼らの仕事は談話とモノを食べる事である。日本で言えば休憩時間に当たる部分で仕事をし、仕事の時間に当たる部分で休んでいた。いつ行っても「明日来い」の一言である。もっと働け。
正確に言うとヒンディー語には「明日」という単語がない。一日前後の日という意味で「kal」という。つまり昨日も同時に意味してしまうのだ。明日という単語がない国に明日はあるのだろうか。「kal」に来い、ということは日本語で言うと「おととい来やがれ!」ってことだったのだろうか。
断っておくがこんな奴らが多い学校でもきちんとした教師はきちんといらっしゃった。
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<クラスメート>

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クラスメートは約25名。授業で全員が一緒に揃ったことなどは一度もない。国籍は、韓国人が10名ほど。日本人数名、ルーマニア、ロシア、イギリス、ドイツ、ブラジル、カザフスタンなどである。中級の200クラスのほとんどはスリランカ人と韓国人である。100クラスでは英語が、200クラス以上はヒンディー語が休み時間の教室での共通語になっていた
韓国人は英語の名前を持っている人が多かった。「サイモン」「シャロン」など、帰国直前まで本名だと思っていたのだが、違った。本名はそれぞれ「さんぼ」「くっくみ」だった。騙された。
僕はヒンディー語の名前を持っていた。持っていたというよりも、入学してすぐに「くっくみ」が名付けてくれた。僕の名前は「剛=ごうで」発音は英語の「GO=行く」と同じ。ヒンディー語では「行く=ジャーナー」だから、そのままジャーナーと名づけてくれた。単純極まりないが嬉しかった。心は揺れたが、日本語の名前を大切にした。適材適所で、ヒンディー語名と使い分けたりもしたけれど。外国語の名前をもつことはたいへん便利である。特に外国人にとって難しそうな名前の人は。
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<魅惑のインド料理> ~一体どれほど辛いのか~

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「Yes」と言えない日本人。「No」と言えない日本人が過去に多かったらしいので、当初聞き取れない事にはすべて「No」と答えていた。
今思えば質問内容を普通に聞き返せばよかった。妙な意地はあまり張らぬほうが良いらしい。
しかし妙な意地を張り通したことのひとつに、食がある。インド料理あるいはインド風にアレンジされたものを主に摂取する事。これにはメリット・デメリットの両方があった。渡航前まで食べられなかった唐辛子の入った料理が摂取可能になったという面では成功。留学の後半に体調を崩してしまったという面では失敗。もちろん体調を崩した理由はそれだけではないが、これが主な原因ではあると思う。
ほとんどの料理にはスパイスが使われている。日本で言うところの、「味噌」「しょうゆ」のような存在だ。味も辛いには辛いが、激辛のものは少なかった[16]。僕が辛いと感じるものは、インド人も辛いと感じるようである。しかし辛い物好きの人は、唐辛子をかじりながらスパイス料理を食べていた。もちろん毎日カレーばかりを口にしているわけではないが、カレー味のものばかりではあった。唐辛子をかじる奴の口癖は、「体に良いから、お前ももっと食え」。

[16] 最近、若い女性の間には美容のために辛いものを控えようという傾向がある。

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具体的な料理名を挙げると、「チキンティッカ」と呼ばれるマサーラーで味付けした焼き鳥みたいなものや「タンドーリーチキン」は最高においしかった。これとビールを一緒に飲むと疲れなんか吹っ飛んだ。炭水化物は、主にナンやローティーで摂っていた。まだ湯気が立っている焼き立てのものを千切りながらカレーと一緒に食べる時は、老若男女みんな無言になる。ライスもよく食べたが、細長くパサパサしたピラフ向きの米だったので、僕はあまり好きではなかった。
よく売られている肉は、チキンとマトン。場所によっては魚[17]や豚[18]も売っていたが、この2つは衛生的に問題のあるものが多かった。クラスメートの1人は道端の屋台で魚料理を食べて、身体が麻痺。しばらくの間入院生活を送っていた。

[17] デリーは内陸部の都市なので海がない。輸送に時間がかかるので、魚は冬季限定食材である。
[18] 豚はゴミ集積場でよく見掛ける。生ゴミを食べさせるために置いているのだ。
その国の文化を知る上では、その国独自の料理を食べ続けるということが有効な手段だと感じた。しかし、毎日はきつかった。これが半年ほど続くと体力はジリ貧だった。大抵のインド料理は素晴らしくおいしいが、時々で十分だ。極端は正解だと日々心の中で念じてきたが、「ほどほど」という言葉を学習させられた。決め手は極端のあとの中庸かもしれない。

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<インスタントラーメン> ~学生の味方~

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料理についてもう一つ。日本もインドも、学生の食生活なんてたいして変わらない。大方の一人暮らしの男なんて適当だ。周りのインド人は誰一人として料理を作れなかった。そこで活躍していたのがインスタントラーメンである。 インドでも日清はがんばっている。しかし味はインド風にきちんと作りかえられている。やはりというべきか、カレー味なのだが日本人の口には合わないと断言できる。
カップ麺はいいとして、袋ラーメンには重大な欠陥があった。それはスープである。インドには平らな皿ばかりでどんぶりがない。よってグツグツ煮込んで完成したあとスープを全て捨てて、ざるそばのようにバサッと皿の上に乗せるのだ。もう何の風情もない。味に関わらず料理のできないやつは食べていたけど、食べている様子を見ても決しておいしそうではなかった。
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<森林破壊> ~インド独自のその原因~

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このようにインドならでは問題があるようだ。ラーメンの他には森林破壊などがある。森林伐採の主な理由の一つに火葬場での木材の需要があげられる。人がたくさんいる分、たくさん死ぬ。パースィー教徒のような鳥葬をする人々やムスリム、キリスト教徒のように土葬をする人々もいるが、多数派のヒンズー教徒はは火葬である。
インドで火葬される人々のために、1日5000本の木が切られている。ガンガーのガートの火葬場は観光の目玉の一つにもなっている。ご覧になった人はわかると思うが、火葬場に運ばれてきた人は一見しただけで身分の高低、金のあるなしがわかってしまう。それは着せられている衣装や燃やすための木の量によってだ。
貧しい人はお金がないので薪が買えない。よって生焼けの状態でガンガーに流される。疫病などで死んだ人もそのまま流されるが、これが河川の汚染に繋がっている。他方、お金持ちは大量の薪で最後まできちんと燃やしてもらえるが、それはそれで森林破壊に繋がる。この2つの問題を解決するための方策は一体何なのだろうか。回答は「網」である。鉄の網の上に死体を乗せて焼くと効率的なのである。
インドならではの問題があればインドならではの解決方法も存在するのではないだろうか。
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<ホストファミリー>

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デリーで生活していた7ケ月間、インド人の家に間借りしていた。4階建てのコンクリート造りのこの家には、総勢20名ほど下宿していた。′
インド人一家は1階に、男は2階、女は3、4階に住んでいた。狭かった。なんだかゴチヤゴチヤしていた。相当な欠絶佳宅だったので、物がよく壊れた。排水溝がよく詰まった。貯水タンクが破裂して、水が部屋の中に滝のように流れてきたこともあった。その度に、彼らと言い争いをする羽目になった。
ここで彼らの家族構成を書いてみよう。
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◇父親:「メーラー」
パンジャーブ州出身。白髪が目立つ、元銀行員。退職後、自らの家を間借りさせることによって生活を成り立たせている。お金のことしか頭にない。卑怯。僕が帰国するときも、玄関にさえ見送りに来なかった、など(この人については何も書きたくない)。
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◇母親:「?」
デリー大学の教師らしい。いつも笑っている。人のことに関しては、楽観主義者である。
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◇息子:「ローヒー」
インテリ坊や。13歳だが、髭が濃い。カールのおじさんのような髭。メーラーの言いつけで、部屋の備品のチェックに来ていた。(もちろん口実は、ただ遊びに来ただけ、と。後でちやつかりメーラーに報告。あれが壊れてた、部屋が汚いなど)物をもらったら、まず値段を聞く(これはほとんぞの人に共通することだが)。
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◇召使い:「ビノ」 メーラーの手下。ビハールの貧しい村の出身。住みこみで働いている。気の良い青年。メーラーの命令は絶対。メーラーは通らない要求があると、このビノが間違ってやったことにして物事を片付ける。例えば、僕の部屋のベッドはビノの間違いということで、取り上げられた。
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ホストファミリーの言うことは絶対だった。彼らがルールだった。僕は結局、彼らとカネの話以外はしなかった。できなかった。インドでの交渉はよくタフだと言われる。彼らはまず初めに「No」と言ってから交渉を始める。「Yes」という言葉を覚えるべきだ。
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<IT専門学校 NIIT> ~プログラミング!?~

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中盤の4ケ月ほど、IT専門学校のNIITにも通っていた。授業内容は、マイクロソフト・オフィスに始まり、最終的にはC言語をマスターできるプログラムだった。結論から言うと、僕はパワーポイントを使えるようになった。英語を聞き取る能力が向上した。最後までブータン人に間違えられていた(技術大国日本から勉強に来るなんて想像しなかったのだろう。面倒だったので僕もそれを否定しなかった)。
クラスメートは10人くらい。中流以上のインド人ばかりだった。プライドが高くツンケンしてる奴が多かった。フレンドリーで親切な人も少しはいたけど。僕はインド人のやさしさが怖い。2、3の例外を除いてあまり良い思い出がない。常に何か要求される。物であったり、時間であったり、金であったり。
授業の進め方は、日本のアビバ等とそれほど変わらないと思う。ただしパソコンがよく故障して授業にならなかった。基本的に英語の授業なのだが、先生、白熱してくるとヒンデイー語になる。普段は生徒にヒンデイー語を使うなと怒っているくせに・・・・・・。英語を全くと言って良いほど話せない生徒が2人いた。テキストも全て英語なので、どうやって勉強していたかは謎。
この学校にはヒンデイー語学院が終わった後の昼過ぎから通っていたのだが、通り道に大きな公園があった。そこではいつもクリケットの試合をやっていたので、時間があるときは眺めていた。僕にはあのユニフォームがどうしても滑稽に見えてしまう。そして未だにルールがよくわからない。
このNIITを優秀な成績で卒業すると、そのままこの学校の親会社みたいな所に就職できるという制度がある。みんなそのためによく勉強していた。一度その会社に行ってみたのだが、デリーではあまり見かけない、ガラス張りのきれいな建物だった。働いている人も自分のデスクでテキパキと仕事をこなしていて、およそインドとは似つかわしくなかった。
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<英語学校 British School of Language>~神経をすり減らす議論、議論~

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NIITが終わってからは、この英語学校に通っていた。留学の趣旨はヒンデイー語の勉強であったのだけれど、僕はこの学校が一番楽しみだった。
1日3時間、週5日のプログラム。ここにも4ケ月ほど通った。3コマに分かれていて、それぞれ文法・単語・会話だった。が、ほとんど全て会話だった。まず始めに、議論するテーマが与えられる。それは、環境汚染であったり、交通、政治、宗教、ファッションと様々であった。それについて20名くらいのクラスメート達と議論するのだ。
クラスメートは、10名がシリア人。彼らは皆、ITを勉強しに来ている奨学生であった。ITの大学が終わった後、苦手な英語を鍛えに来ていた。強そうな人が多く、例外なくムスリムだった。加えて3人のアンゴラ人。彼らは在インドのアンゴラ大使館の職員の人たちだ。英語もヒンデイー語も話せないので、家で雇っているインド人の召使いとのコミュニケーションが難しいと言っていた。そして中国人1人。残りはインド人。
日本でデイべ-トをするとなると、あまり意見が出なくてシーンとなることが多いが、ここではまったく違った。みんなが、我こそは、我こそは、と自分の意見を述べるのでしばしば収拾がつかなくなった。あちこちから、「シヤラープ!」という声が聞こえた。まとめる筈のパンデッド先生が一番強引に自分の意見を主張した。
議論のテーマもデリケートなものが多かったので、冷や汗をかくことが何度もあった。「神はいるのか、いないのか」休み時間にメッカに向かって祈っている人がいる。どうやっていないと言えようか。「僕は神は信じないけれど、否定はしないよ」と言ってはみたけれど、そのときはクラスメート全員を敵に回してしまった。アメリカの話題になったら、みんなヒートアップした。ここでも先生が一番ヒートアップしていた。
休み時間に一人のインド人がからかわれていた。
「お前って、あのビン・ラーデインに似てるよなあ!?
少なからず似ていたので、「あ、なるほど!」と思い僕も笑っていた。そういえばジェスチャーもどことなく似ていた。そこへシリア人が何人か教室に入ってきたので、クラスメートのインド人の一人が、その話題について説明した。
「こいつ、ビン・ラーデインに似てない?」
すると、一人のシリア人が「ハハハ・・・・・・」と冷たく笑った後、
「一体それの何がおかしいの?」「それでいいじやないか。」
このように、ふとした瞬間に文化や考え方の違いに触れることができたので良い経験になったと思う。その時は本当に怖かったけど。
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<デリーの一日はこんな風に終わる>

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