スウェーデン ヨーテボリ大学 交換留学 後半編 (富樫 Vol.2)
ヨーテボリ大学留学報告記 後半編 富樫 功
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※留学4ヶ月目のスウェーデン ヨーテボリ大学 交換留学 前半編 (富樫 Vol.1)から続く。
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スウェーデンはどんな国であったか?それは一言で表すのは酷く難しい―とは思うのだが個人的には「極端な国」と一言で言える。あと付け加えるなら「冬以外はいいよ」って事だろう。帰国してから今もずっと感じているのが、未だに夢の世界にいたような、本当に留学していたのか分からない記憶の混沌具合である。端々は色々思い出すし、確かにスウェーデンにいた、と言う物質的証拠は手元にあるのだが、実際どのようにスウェーデンのイェーテボリと言う決してメジャーとは言えない都市で過ごしていたのかさっぱりである。そんな痴呆症気味な体験記等、読む価値もないとは思うし、生活観の無さでは自信のある僕が書く体験記なので(教授にも「スウェーデンでは1人でご飯を作っていた」と言っただけで「意外」と返された。僕も意外だ。)読む人にとっては酷くロマンチズムに溢れた夢物語に見えるかもしれないがそこは色々と耐えて欲しい。それでははじまり―。
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正しいスウェーデンへの行き方
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スウェーデン、第二都市イェーテボリに行くのは非常に簡単だった。ような気がしなくもない。もうこの辺りから不安だ。とりあえず我が北大経済学部には交換留学生枠として「イェーテボリ大学―経済学部(Economic&Low)」が何名かある。まずその情報を見つけるのが最初で最大の作業。僕がその情報を見つけたのは・・・11月か12月か・・・とにかく応募締め切りも迫った頃だった。僕は留学には常々行きたいと思っていたし、行くのなら絶対ヨーロッパ!!と決めていたので(訳は後に)、ゼミの教授の勧めもあり、とりあえず教務係に「行きたいとは思っている」と言う事を伝えた。本当に行くにせよ、行かないにせよ、ここで意思表明しておくことが大事なのだ。まぁ僕は何があっても行くつもりではいたが。
次に教務係から「本当に行くのか、行くのなら選抜テストみたいのもあるよ」的な事が伝えられる。英語に全く自信のない僕だが、この選抜試験では受かる自信があった。なぜなら、今年度は僕以外に「絶対イェーテボリに行こう」と決意している人が少ないのに、なんとなく気づいていたからだ!!実際、イェーテボリに行くためには、、「TOFEL550点以上」とか、日本語面接と英語面接で資格を審査される。日本の別の大学からイェーテボリに来ていた留学生は、学内の選抜試験に苦労したそうだ。北大も今ではもっと厳しく選抜テストをしているらしいので、本当にいい時期に行ったなぁとしみじみ思う。
でもスウェーデンの公用語はスウェーデン語なので、英語の試験をするよりもスウェーデン語の初歩の勉強をしていった方が非常に役に立つ。日常会話で使う英語など勉強していかなくてもなんとかなるし、大学英語は日本で勉強していってもなかなか難しい。生きていくためには簡単なスウェーデン語だ。もちろん僕にはしっかりとした英語もスウェーデン語の力もなかった。でもまぁなんとかなった。あまりに分からない事だらけで気にしなくなったのかもしれない。
ここからはもう流れ作業になるのだが、最後に僕だけが体験した大きなトラブルがあった。それは僕がスウェーデンに留学するのをあちらの授業が始まる9月からだと思っていたのが、これまでの交換留学生は北大の年度始めの4月から留学してきた事である。これに気づいたのは2月くらいの時期。教務係の人には多大な迷惑をかけたのだが「どうにか9月にいかせて欲しい」と頼みこみ、この交換留学枠を持ってきてくれた教授のご好意もあり、僕の希望通り9月から留学となった。後から聞いた話では、僕が9月留学を希望し、あちらもそれ用に受け入れる準備をしてくれたので、北大側も「やっぱあっちの学期初めの9月に行かせるのがいいかもね」と思い、9月留学が認められたらしい(今まで通り4月にもいける)。この変化は僕もこれから留学を希望する人たちのために何か残せたような気分で嬉しい。
あと残すのはビザの発行やらなんやらの作業だが、この辺りには僕はあまり苦労した覚えもないので書くこともない。気づけばイェーテボリへ向かう飛行機の中だ。初めて空から見たスウェーデンの風景は、それはそれは美しくて、本当に美しくて、言葉には出来ない。とにかく「湖と森」の王国であることは本当だ。そして無数の小さな島々。それからのスウェーデン・ライフを期待に満ちたものに感じさせるには十分な光景であった。
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正しいはじめの一歩の踏み方
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何にせよ、最初と言うのは痛みを伴うものらしい。もちろんスウェーデン・ライフの一歩も非常に痛かった。小さい空港を出て気づけばわけのわからんスウェーデン語、一人だけのアジアン・ピープル、奇異の目である。そんなのはあまり気にはならなかったが「さて、本当に誰か迎えに来てくれるのだろうかね?もし来なかったらどうやって寮まで行こうかね」と言った大きな不安があった。しかし、さすが大学間協定!!ちゃんとコーディネーターのKさんが迎えに来てくれていた。大学とは関係のない彼女の夫もなぜかそこで紹介され、僕の大きな不安を受け止めてくれそうな大きなお腹をしたKさんの車に乗り、空港から街の中へと移動する事になった。
彼女と最初に話した会話は今でも覚えている。まず「スウェーデンが、人は少ないけど土地はでかい国」だという事。そして「今年(2002年)はすごく暑く数十年ぶりの猛暑」と言う話であった。しかし2003年のヨーロッパは記録的な暑さであったと言う話であったし、地球温暖化って本当なのかもしれない。彼女の車でしばらく街を案内された後は寮まで連れていってもらった。何畳か分からないが、なかなか大きくとても綺麗でバストイレ付、キッチンだけは4人でシェアと言うことであった。ほかの留学生の話を聞くと、これだけの施設の寮はなかなかないようだ。さすがスウェーデン・ハウス、といった所だろう。
Kさんは僕にトイレット・ペーパーを買い与えてくれ、「明日、私は別の子を空港まで迎えに行かなくちゃならないから、貴方は一人で寮の受け付けを全部すませ、キッチンとランドリーの鍵をもらいなさい」と言い残し、ドシドシ去っていった。
そこまでは良かった。そこまでは良かったのである。問題は「一人で」「寮の受け付け」ってやつである。よく分からない文字、もちろんそれはスウェーデン語だとはわかっているが、を見て、どれが寮の受け付けなのか通りがかりの人に聞き、鍵をもらうためにあっちらこっちら書類を書かされ、建物を往復させられ、わけがわからなくなった。Kさんに電話しようも全然繋がらず、もう嫌になった。でも「まぁ部屋の鍵はあるし、どうでもいいや」と思い直し、近くのコンビニでピザを買って食べたが(キッチンには入れないし、遠出なんて出来るわけもない)、あまりの味のまずさに辟易して「早くキッチンの鍵を手に入れなきゃ!!」とまたまた思い直した。
それからどうやったのかはあまり思い出せない、と言うか思い出すのが嫌なのだが、色々な人の力を借りてなんとか全部の鍵を手に入れ、インターネットまで繋がった。感じるのは、僕の部屋の上に住んでいる人が日本人の女性であった幸運や、9月留学と言うことで様々な歓迎パーティが開かれ、そこで知り合った友人たちがいたおかげである、ということである。これまた感じるのは、僕の国家権力との相性の悪さ、と言うヤツだ。八つ当たりだが。
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正しい学問の仕方
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これから留学に向かう人たちの大きな関心な出来事である事をとりあえず最初に述べておきたい、と思う。大学生活の目玉、学問と単位である。あちらでの履修届はHP上で行う。ハイテクだ。スウェーデンはインターネット普及率が世界で二位だとか言う話なので、ほとんどの人がインターネットが使える状況にある。あと携帯電話の普及率も高い。
履修届けを出した後、最初の授業までしばらくあるので何があるのかと思ったら、交換留学生を全員集め、船でスウェーデンの小島まで行くという行事があった。そのほかにもちまちまとしたパーティがあって、交換留学生のほとんどの顔を覚えるのにさほど時間はかからなかった。それなので授業が始まる時にはすでに知っている人、友達も出来ていて大変やりやすかった。それとともに最初の授業で大半の人が履修する「ケーススタディ」の講義は国籍が違う人5,6人でグループを組み週1,2でレポートを仕上げなければならなく、様々な国民性を感じるとともに友人作りにもってこいな授業なのでお勧めである。
講義の英語はかなり難しい。語学留学ではないので、難しい経済用語がどんどん出る。受験英語とは全然違うのだ。これでテストが筆記試験とかだともうテスト前は教科書の膨大なテキスト量に囲まれあたふたする。と、まぁ正直、あちらで単位を取るのは楽じゃない。多分日本で単位を取るほうが余程楽だ。それでも僕は頑張ってイェーテボリ大学でいくらかの単位を取ってきたのは、あちらの先生の優しさと「交換留学だから北大でもちゃんと単位として認められるよ」という、ゼミの教授の甘いささやきがあったからであった。
あちらの先生は本当に優しい。英語でのテストの仕方、レポートの書き方、プレゼンテーションの仕方、何もかもが初めての僕に一人一人の先生が相談に乗ってくれ、あまりに僕が何回も相談のメールを送ったり会いにいったりしたためテストではかなり大目に見てもらったような気がする。特に思い出すのが、「Modern Scandinavian Economic History」のL先生だ。スウェーデンは世界で最も男女平等の進んだ国、大学の先生も非常に女性が多い。女性の教授は日本ではあまり見ないし、講義を受けた事もないが個人的には男性よりも身振り手振りが多く、言葉が分からない時には非常に助かるような気がする。
そのL先生の受け持つ「近代スカンジナビア経済史」だが、僕は西洋経済史専攻であり、どうしても受けたい授業のひとつであったが、周りの人からは「テストが筆記、レポート、プレゼン全部あるから面倒」だとか「経済史に興味ない」とか言われ不評であった。
教室も小さい場所で20名も生徒がいなかった。そんな少人数ななかで日本人がぽつん、といるのもやはり目立つのか、L先生はなにかと僕に意見を求めてきた。ヨーロッパ史全般にも周りの交換留学生より劣っているのに、スカンジナビアの歴史についてなど言える事なんぞ何も言えない僕は、いつも気の効かない答えを返していたと思う。テスト前は毎日のようにL先生にメールし、分からない所を質問していた。あれよあれよという間に筆記試験が終わり、それまたなんとか仕上げたレポートを彼女の所に出すとき、彼女は僕を呼び止めて嬉しそうに言った。「まだ発表になってないけど、あなたの筆記試験は合格点よ!!よかったわね!!」と。本当、ありがたい気持ちになった、反面、出来のよくないだろうレポートを、意味の分からない英語を一生懸命解読してくれるL先生を、不憫に思った。スカンジナビア経済史は面白い授業なので、イェーテボリ大学に行ったら受けてみて下さい。
さて、テストが終われば単位の発表である。僕はなんとか全てのテストをギリギリのラインでクリアした。まぁ実際はほとんど不合格に近い点数だったんだろうけど、熱意だけは伝わった、という事だろうか。テスト勉強中、心の支えにしていた「北大で、ちゃんとこの単位が認定される」という話、忘れてはいないだろうなと思い、ゼミの教授にコンタクトを取る。うん、大丈夫なようだ。しかし「何か証拠になるようなもの」を用意しなさい、というようなことを言われた。もちろん僕はコーディネーターのKさんがそれを発行してくれるもんだと思っていた、だってそれしか当てはないじゃないか・・・。Kさんには色々と面倒を見てもらっているが、なんとなく僕は不安になった。まぁ悪い予感っていうのは的中するもので、事件は起こった。
「Kさん、産休」。
スウェーデン素晴らしい。さすが男女平等。女性の産休、育児休暇に関しては非常に素早い。しかし後任が決まる前にそれをするのは素早すぎなのではないか!? そうかそうか、今分かった、あの時旦那さんが一緒に来ていたのは、身重のKさんを心配していたからなのか。そしてあんなに腹が出ていたのは、赤ちゃんが中にいたんだね。おめでとうKさん!!と心の天使が祝福する中、「そりゃないぜKさん・・・」と途方にくれる僕もいた。
結局、後任の方がくるまでしばらくの時間があった。その間に色々とやらなければならない事務手続きは全部、友人のスウェーデン人、フレドリックの力を借りてやった。そして僕がその「証拠となるもの」として手に入れないといけなかった「単位認定書」は、日本に帰ってきてからしばらくして、後任のコーディネーターに頼んで送ってもらいました。会った事もないコーディネーターのIさんでしたが、日本人で良かったです。本当。有難うございました。
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正しい冬の過ごし方
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「冬」・・・それがスウェーデンの暗の部分である。僕がスウェーデンは極端だ、と言うのは男女平等の徹底具合、福祉の年齢のよる落差、街のバリアフリー計画という例を差し置いて、まずこの「冬」にあると思う。スウェーデンの冬は逆白夜―黒昼だ。それはもう暗くて暗くて、比較的スウェーデンの南部にあるイェーテボリでさえドラクエ3で言うアレフガルドの世界―暗黒の世界―だ。勇者さま世界をお救い下さい、と何度も平民Tである僕は神に祈った。しかし平民Tの祈りなど無視して、日は昼の12時に昇り昼の3時には下った。しかも日が昇った、と言っても空はグレーな曇り空が覆いつくした嫌な天気である。
そんなものであるから鬱にもなる。実際、この前ふと見ていたTVで冬季鬱病についてやっていた。人間は太陽の光を一定量浴びないと、ほにゃららと言う体内物質が減少して鬱っぽくなるという事が判明しているらしいのだ。つまり鬱になるのは至極当然。鬱になってしかるべき、なのだ。イェーテボリの街も冬になるとだんだん人口が減ってくるのではないか、と錯覚させるほど人影がまばらになった。皆、部屋にいて引き篭もるようになるのだ。ここにスウェーデン人の以下の生活観、国民性が現れてくる。
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1:スウェーデン人は家が好き
彼らは家が大好きだ。世界的家具屋IKEAを輩出している事もこれに関係している事だろう。スウェーデン人のお部屋にお邪魔すると、皆、大層お洒落に、それでいて清楚にまとめられている。
それに引越しも大好きだ。僕の隣の部屋はスウェーデン人が3名ほど入れ替わり住んでいたのだが今よりもいい物件があると躊躇なく引越しする。しかも大体は友達が借りている部屋を又貸ししてもらう。それゆえイェーテボリは、学生寮が実際は空いているのにも限らず、部屋不足で新規参入者が入りずらいという、よく分からない状況が起こっている。あんなに又貸しをしていたら、取り立てる方も大変なのか、寮費の入金方法は非常に面倒くさかった記憶がある。3ヶ月だか2ヶ月だかのスパンで請求書が送られてきて、それぞれ支払い場所が違い、支払い方法まで違った。
とにかく、長い冬を楽しく過ごすため、少しでも自分の部屋を楽しく快適にし鬱にならないような努力が垣間見られる。これは大げさではなく友人のスウェーデン人もそうだ、と肯定していた。確かにあそこまでの部屋への執着心は日本では考えられない。
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2:スウェーデン人はロウソクが好き
僕の部屋には直接照明がなかった。備え付けの家具として間接照明が2つほど申し訳なさそうに部屋の両端におかれていた。彼らはどのようにして部屋を明るくするのだろう?もちろん直接照明を無理やり設置する人もいるが、彼らはロウソクというアナログな道具を使っている事も多かった。
スウェーデンのお土産として定番の一つがガラスで出来たロウソクたてであり、街の中でもよく見かけた。小さなロウソクの束はIKEAなどで格安で売られており、最初スウェーデンについた時、まだ晩夏であったので「一体、こんなにロウソクを何に使うのだろう?」と不思議に思ったものだった。
一見ロマンチックに見えるロウソク。しかしスウェーデンの冬に部屋でぼーっとロウソクの火を見ながら思案に耽っていると「もう俺も燃やしておくれよ」と訳のわからない事を考えるようになる。鬱な時のロウソクっていうのは色々な意味で自分をおかしくさせる。でも時々、その無意味な思索をたまらなくやりたくなる。きっとスウェーデン人もこのユラユラゆらめくロウソクの炎を見て色々と考えるのが好きなのであろう。こうやってスウェーデンではノーベルさんだかがダイナマイトだかを考えた、と僕は予想している。ノーベル賞の秘訣はロウソクにあり、だ。
他、色々と冬の暗さ―それに派生する鬱という要素はスウェーデン人を形成する礎となっているのだが、12月にあるルシア祭等もその一つであろう。以下では12月にあったスウェーデンの国民的祭りルシア祭、クリスマス、シルベスターについて書こうと思う。
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12月13日ルシア祭
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聖ルシアは光の女神である。12月13日は、本来、イタリアのシシリー島の聖ルシアを祝う火であった。この日はスウェーデンでもっとも夜が長いと考えられていた日であり、そのため人間も動物も特に栄養を摂することとされていたらしいが、個人的な意見ではスウェーデン人の「光」に対する欲求の深さ、少しでも暗い夜を明るくしてくれよルシア様、と言った願掛けみたいなのを感じられた。
12月13日の朝にロウソクを手にもち白い装束、深紅の帯をつけた女の子がサフランパンとペッパルカーカと言う食べ物を配って回る、と言う伝統儀式が本当であるらしいが、イェーテボリは都会なのでそこまで徹底した儀式はなく、教会で小学生くらいの少女たちによるコンサートが夜に行われていた。多分、数週間前、数ヶ月前から練習はしていたのだろうが落ち着きの無い小学生が行うことであるから、どことなくほのぼのとした微笑ましい神聖な行事であった。イェーテボリのルシア祭では都会は都会らしく、大きなイベントがあった。イェーテボリには北欧最大の遊園地リュッセベリがある。しかもその遊園地は僕の住んでいた寮から歩いて約15分のところにあった。
この遊園地で、なんと「イェーテボリのルシア」を決める日本でいうミスコン的なイベントが開催されていた。こいつは楽しそうだーと、数個の教会のコンサートを梯子してテンションの上がりきった僕は意気揚揚とその遊園地へ向かった。
遊園地は北海道のものと同様に冬は営業をストップしているが、ルシア祭とクリスマス、そしてシルベスターの時だけは入場できるようになっており、ライトアップがされていた。個人的に冬の遊園地の明るさは幻想的で好きだ。煌々と輝く電球に飾り付けられたアトラクションや木々の中のアイススケート場が、そのルシア祭イベントの中心部であった。
あまりの寒さに震えながら待つこと数分、アイススケート場に北欧美人が二人滑り舞い始める。その次は少年と少女のペア。ワクワクしてくる。関係ない話だがスウェーデン人は美人が多い。美形も多い。ヨーロッパ中を見ても、プラチナブロンドと言われる金髪の保有率と整った顔立ちの多さで北欧の人々は際立って美しく見える。あと、背が高いというのもポイントであろうか。
彼女らのアイススケートショーが終わるとようやく本番だ。7,8人のこれまたとびきりのスウェーデン美人がルシアの格好に扮し、厳かに歩いていくる。よく分からないスウェーデン語のアナウンスで彼女らの紹介があり、これから何か彼女らのパフォーマンスがはじまるのか、と思いきやすぐに審査発表となった。どうやらこのルシアミスコン、かなり前から新聞などでアンケートを集計しておりこのイベントはただの結果発表の場所であったそうな。ちょっとがっかりしながらも自分が一番美しいと思った女性がミスイェーテボリに選ばれたので「俺って結構、見る目あんじゃーん!!」とか自惚れて帰路に着いた。
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クリスマス(ユール)
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さてサンタさんは一体、どこの国の人でしょう?これは北欧の国々では結構自国のプライドをかけた問題であるらしい。名乗りをあげた国はフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマークはちょっと引いた。しかし最近はスウェーデン説も少数派らしくノルウェー対フィンランドの一騎打ちと化している、らしい。
一体、何でこんな事を最初に述べるのかというと、クリスマスの本場は何処だ?という話に繋げたかったのだ。本場候補から一歩退いたとはいえ、まだまだ本場の自覚あるスウェーデンでは、もちろんクリスマスは盛大に行われる。この時期に街中へ行くと、それまで鬱病で引き篭もっていた市民が一斉に街に出てくるため「うわ、急に人口が増えた!!」とびっくりする。スウェーデンの一般的な部屋の飾り付けは窓際に置かれたロウソク(ここでもロウソクだ)の形をした電灯だ。
僕も試しにスーパーで投売りされている電灯を一個買って窓際に飾ってみた。するとなんとまぁそれまでの鬱な空気がプンプン漂っていた部屋が少し、明るく見えるではないか。やはりクリスマスも鬱な時期だからこそ感じられる喜びがある。オーストラリア等のサーフィンしているサンタなんて嘘ぱっちだ!!本当のサンタはなぁ・・・本当のサンタはなぁ・・・と訳のわからない悔しさと優越感に浸り、僕もクリスマスイブイブとクリスマスイブばかりはごった返す街中を何か買うあてもなくウロウロしていた。今思えばそれ自体が鬱っぽい行為だ、むしろ危ない。
しかし何もあてがなかったわけではない。クリスマスイブの日は教会を数軒見て回った。僕はクリスチャンではないが、こういう伝統行事は大好きだ。しかも本場に来ているのだ。スウェーデン語のバイブルを手にとり、スウェーデン語で聖歌を歌う。もちろんスウェーデン語は読めないから、推測だ。周りにいる視線の落ち着かない子供でさえ、僕を見ればしばらく凝視する。彼にとっては黄色の肌で黒髪の怪しい男が意味のわからない歌を歌っているようにしか見えなかっただろう。でも僕はいい気分だった。これからは毎年、出来るだけ教会に行ってクリスマスを過ごそうと心に誓ったくらいはまってしまった。
25日、クリスマス当日の朝のミサにも欠かさず行ってみたが前日の人の入りに比べると非常に空いていて、やはりイブはお祭り的な要素、当日は宗教儀式的な要素なのはどこの国も同じなのか、と感じた。朝早くテンションもあがっていないのか、周りに誰もいなく自分の声を気にしたのか、さすがに前日ほど似非スウェーデン語で大声で歌うわけにはいかなかった。しかしあの雰囲気は癖になる。個人的な宗教観なんて特にあるわけでもないが、文化と歴史が宗教と密接に関係ある事を肌で感じる瞬間が好きだ。
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シルベスター
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シルベスターとは日本でいう大晦日の事である。ヨーロッパでも大晦日をやるのか?と思う人がいると思うが、結構盛大な祭りであった。実際、僕もその日の夜は家でのんびりしていた。正月だからと言って特別な事はないと思っていたし、その数日後に行く旅のプランでも立てていたのだと思うが、いきなりカミナリが落ちたような音がした。
不意打ちで鳴り響く轟音、そして光。花火だ、と気づくには少し時間がかかった。むしろ「爆撃!?」と思うほどの連続した花火、それに街中いたるところでやっているので音が重なりすごい光景になっている。日本の大晦日の雰囲気とは正反対にこちらの大晦日は派手だ。いつまで続くのだろう、と花火を部屋の窓から見続けること30分ほど、つまり2003年1月1日0時30分程までその轟音は続いていた。あの光景も未だに印象に強く残っている。冬の花火もいいものだな、と思った。
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正しい友人宅の訪問の仕方
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お正月を過ぎ、しばらく経った頃僕はスウェーデンが誇る高速列車X2000に乗っていた。このカラオケの機種のような名前の列車、最大時速200km出す結構優れたものらしいがあまり列車に詳しくない僕はその有難味が特にわからなかった。とにかくクリスマス休暇と言うことで実家に帰省していた友人フレドリックに誘われるまま僕は、首都ストックホルムとウプサラの間にあるクニヴィスタと言う町に行こうとしていたのであった。
イェーテボリから電車に揺られること4,5時間、雪ばかりの景色に辟易していた頃、妙に都会の雰囲気を持ったストックホルムが見えてきた。ストックホルムの人口は約150万人。同じ雪国の大都市と言うこともあろう、札幌とどことなく似ている雰囲気がある。ちなみにイェーテボリではさほど雪は積もらない。海流の影響だとかなんとか聞いたのだが雪のない冬を初めて体験した道民の僕は一種の懐かしさを感じストックホルムの駅に降り立った。
ストックホルムの駅からウプサラへの列車に乗り換え、クニヴィスタまで行かなければいけなかったのだが、おかしなことに列車が出ない・・・。スウェーデン語で妙なアナウンスが流れて「ウプサラ行きの列車はキャンセルされました」と言ったことだけは奇跡的にも分かったが、それからどうすればいいのかどうなっているのか、さっぱりアナウンスが理解出来なかったため、チケット相談室へ行って英語で聞くことにした。ここらへんは「もうスウェーデン語はわけがわからない。早く人に聞こう」という生活に馴染んでいるため、自分の決断も非常に早い。相談所の愛想の悪いおばさんによると、とりあえず15分後くらいに列車は出るということ。乗り場も確認したし、フレドリックに遅れる事を伝え、一安心した。しかし旅中にこういった予想不可能なトラブルが起こると概して人間は神経質になるものだと思う。
「本当にこの列車でいいのかなぁ・・・」「ここは自由席なのか指定席なのか!?」」等といった疑問が生じる中、適当に席を選び列車のトイレへと向かった。よhど僕は緊張していたのか、それともその列車のトイレの仕組みが悪いのか扉の鍵がしまってなく、スウェーデン人のおじちゃんに覗かれてしまった。あの時の気まずさのせいで緊張は一気に恥ずかしさと変わり、もうどうでもよくなった。
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何もないクニヴィスタの田舎駅。そこでフレドリックは寒そうに震えながら待っていてくれた。ここでフレドリックについて説明しよう。
彼はイェーテボリ大学の日本語学科に所属しているナイスガイで、日本語学科の先生が開いてくれたパーティで知り合い仲良くなった。彼は非常な親日家で、優しく、日本の東京等の大都会に憧れている、スウェーデン人でいえば大変珍しいであろう趣味をもった人であった。ちなみに音楽も詳しい。最初はイェーテボリで一番大きなCD屋に連れてもらう約束を交わしたことにより仲良くなったのだと思った。色々話すうちに気が合い、彼は日本語を僕はスウェーデン語を学ぶためにも最適な仲で、こうやって実家に案内される程にまで仲良くなった。
彼の家はこれまた何もない道をひたすら車で15分走った所にあった。北海道で言えば・・・日高とか道北の田舎町とか・・・それくらいの田舎だと思ってくれればいい。しかし首都ストックホルムと車で1時間と離れていない町でこうである。スウェーデンの北に行くとほとんど何もない、という話もうなずける。彼の家はとても大きく、入ると彼のママとパパがやさしく出迎えてくれた。スウェーデン人の英語能力は非常に高く、50歳代か60歳代であろうフレドリックのママはペラペラだ。パパも僕よりは遥かに上手い。彼の場合、喋れるけど口下手なのかあまり喋ってくれなかった、という感じもあった。最初は僕も頑張ってスウェーデン語で挨拶をし、少しだけ会話をしたがすぐに諦めた。発音が全く出来ないしボキャブラリーも少ない、あまりにも無謀だ。英語の会話でさえ危ういくせに。
僕はフレドリックのお兄さんの部屋を借りて宿泊した。フレドリックのお兄さんもイェーテボリ大学の工学部だとかに通っているらしいのだが、フレドリックが「何をやっているのかあまり知らない」と言っていたので僕も知らない、兄弟なんてそんなもんだろう。 本当のスウェーデン・ハウスは洒落ている。ちょうど、まだクリスマスの飾りも片付けてない事もあったのだろう、全ての部屋中が大変綺麗であった。初日で印象に残っているのは食事の前に出されたおやつが多かったこと、「スウェーデンではよく列車がキャンセルになるよ。乗る人が少ないからね。」と言っていたこと。そしてやはりパパの積極的な家事の手伝いの参加だ。男女平等という暮らしは、男性側からも女性側からも意識の進歩がないと出来ないが、スウェーデンではそれが当たり前に出来ている。それが理解出来た瞬間であった。
日本の地図とスウェーデンの地図を見て、色々話をしたりお酒の勢いでギターを弾かせてもらったりして大変楽しい時間を過ごさせてもらったが、両親とも次の日も仕事と言うことで早めに床に着いた。その日は伝統的なスウェーデン料理を食べさせてもらったと思うのだが、この舌があまり覚えてない所を見ると、まぁそういう事なのだろう。サーモンとかポテトとか鶏肉とか、本当のスウェーデン料理を食べた経験は確かに残っている。はず。
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次の日、目がさめるとすでにフレドリックの両親はいなく、フレドリックと二人でぼんやり昨晩の残りとパンを齧っていた。すると窓の外では急に小鳥たちがこちらの方へ向かってやってくるではないか。何事か!?と思いきや、なんてことはない、窓際に餌が設置されてあったのだ。なんだか平和だな、と感じながら朝食を終えたことを覚えている。
その日はフレドリックの車でウプサラへ案内してもらう事になった。ウプサラはスウェーデンでも有名な大学都市であり、教会を除けば見るべき所は特にない。昼ご飯は中華を食べた。イェーテボリでも中華のテイクアウトがないのに、ウプサラでは中華があることに不条理を感じつつ、早々にウプサラを離れた。フレドリックの家に戻る間に色々な場所に連れて行ってもらったが、車でしかいけないような場所もたくさん連れて行ってもらい、大変ありがたかった。この日の晩もスウェーデン料理だったなーと脳内では記憶している、が、夜もまたウプサラに行き、フレドリックの友達の家で遊んだ事のほうが鮮明に覚えている。
そしてフレドリック家に着いて3日目、今回の旅のメイン、ストックホルム観光とその周りの城館巡りの日がやってきた。ストックホルム自体はイェーテボリの拡大版という感じで、さほど大きな印象はなかったし、確かにガムラタウン(旧都市部)は綺麗な建物が多かったが、僕がインターネットと本を使って調べに調べた、ストックホルム郊外の個人所有の城館や国有の別荘地のための宮殿に比べると、僕の中の印象度は薄れてしまった。特に国立美術館の分館(とても小さい)があるウルリクスダルス宮殿などは、お勧めであろう。まぁ城館マニア的な視点をしないと何もおもしろくないかもしれないが・・・とは付け加えておく。
ストックホルムで、フレドリックに誘われ日本語書店に行ってみた。久しぶりの日本書、久しぶりの日本食、と言うことで色々と興味をもったのだが、「いやいや折角、スウェーデンにいる間は、日本からは離れよう!!」と思い、チェコの建築物史の本だけを買って僕の買い物を終えた。しかしフレドリックは逆に「折角、ここにきたんだから日本食を買い込むぜ!!」とばかりに、意気揚揚と買い物をしていた。彼に「おもしろい漫画を選んでくれ」と言われたので、読みきりで読めるものとして『こち亀』と『かってに改造』という漫画のコミックスを選んであげた。あとでフレドリックに聞いてみると、『かってに改造』の方がおもしろかったと言うので、やはりスウェーデン人はブラックユーモアが好きなようだ、と分かる人は分かって頂きたい。この日の夕ご飯はナコスだかメキシコ料理だった。
「スウェーデン人は他の国の料理を結構食べるのよ」とママは言っていた・・・ナコスはおいしかった。イェーテボリに帰ってからも一人で作って食べていた。スウェーデン料理は一回もチャレンジすらしなかったのだが。それから数日、フレドリックの家でお世話になったのだが、帰りにフレドリックのママに抱きしめられ、「またスウェーデンに来るのよ。」と言われたときは、さすがにここ数年、自分の涙というものを見たことがない僕もじーん、ときた。そして絶対、スウェーデンにはもう一度、いや何度でも機会があればいこうと思った。今度は食材を買っていって僕が日本食をご馳走してあげるんだ、と心に決めながら。
この旅の間は天候にも恵まれ、数時間しか上らない太陽が異様に眩しかった。写真で何枚も撮ったのだがあの美しさはなかなか現れてくれない。
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正しいクリスチャンを気取る仕方
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ぼかぁヨーロッパが好きだぁー。とアホ面下げて誰の前でも言えるくらい、ヨーロッパが僕は好きだ。ミーハーでもなんでも言えばいいと思う、が僕は小さい頃からヨーロッパに憧れ、今では自分はフランス人だと錯覚するくらいに好きになってしまっている。ちなみに僕のパスポートの発行元は「Embassy of Japan in France」だ。これはれっきとしたフランス生まれの証拠だ・・・。もちろんそれは嘘で、パリでパスポートを無くしてしまったからにすぎない。その当時(2003年4月頃)、イラクでの戦争のためフランスではテロ活動などが起こり、パリの街中が神経質になっていた時期であった。道行く警官も機関銃を構えている。そんな女性警官(僕の中ではフランス人の女性はヒステリーと決まっている)にあやうやなフランス語でパスポートが無くなった、書類を作ってくれ、等と言うのは非常に勇気がいることであった。普通の人はこの事件について興味がないか、ただ単に心配してくれるか、どっちかだけれども、僕の教授はすぐに「パスポートがフランス大使館発行になって格好いいですね」と言ってくれた。さすがフランスのエスプリを分かってらっしゃる方だ。昔は自分をフランス人だと思い込むあまりにイギリス嫌いになり、実際イェーテボリであったイギリス人の男とは仲良くなれず、フランス人のクリストファー(♂)には毎日のようにウィンクされていたのだが、実際イギリスと言うかスコットランドの田舎の風景を見ると「やっぱこっちもこっちでいいなぁ」と思ってしまった。何か負けた気分だし、自分のアイデンティティーが揺らぐ気がしたが、まぁこれはこれでいいのかもしれない。死ぬまでに自分は何人なのか決めよう。
そんな事はどうでも良く、なぜ僕がヨーロッパ好きなのか?と言う要素に「教会」好きと言うものがあるだろう。あと「城、館」マニアだと言うことだ。前者のほうはスウェーデンに来る前から理解していたが、後者はフレドリックのママに「あなたって本当、城とか館の話をすると生き生きするわねぇ」と言われ、フレドリック家が家族旅行で行った時に買ってきたオーストリアの城館のパンフレットやスウェーデンの地方城館のパンフレットを全部頂いてきて初めて気づいた。「教会」が好きなのは・・・やはりその醸し出す歴史の深さと文化の香り、とでも言おうか日本以外の人でも日本の宗教に染まっているわけではないがお寺が好きな人がいるのだろうと同様にそういう建物が好きな人間なのだ、僕は。
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週に一度は教会に行った。ミサなどは本当のクリスチャンではない僕が行くのはあまりに不謹慎なのかもしれない、と思いそんなには行かなかった。スウェーデンはプロテスタントのためかそこまで熱心な教徒である人も周りでは見なかったし、実際教会に行っても誰もいない事がほとんど、であった。僕がよく行く教会は二つあり、一つはゴシック建築で尖塔アーチが綺麗な教会、もう一つが何式だかいまいち分からない教会であった。あまりに僕が熱心に通っているように見えたため、周りの友人は「功はクリスチャンだ」とか日本人の友人には「ロマンティストだ」とかバカにされたものだった。服装もアクセサリーも十字架、クロスなものを好んでいたために更にそう思われたらしい。しかし、そう思われても別にいいや、と思っている段階ですでに僕はクリスチャンだったのかもしれない。
聖書なんぞ一度も読んだ事もなく、ただ「明日のテストをなんとか受からせてくれよー」等、身勝手な祈りしかしていない大層どうしようもない教徒ではあったが、こんなヤツでもちゃんと無事に死なずに日本に帰ってこられたわけだし単位も取れたので、神様は本当に慈悲深いなぁ、と思ったりすることもある。がそれも一瞬の出来事だ。
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正しいスウェーデン音楽の仕方
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スウェーデンの音楽も極端だ。スウェーデン、しかもイェーテボリが聖地の音楽のジャンルがある・・・それはデスメタルだ。デスメタルとはなんぞや、と思われる人が多いと思うし、一応ロックバンド経験者の僕も、スウェーデンに行くまではあまり詳しい事は知らなかったジャンルであった。
でもバンド仲間の一人が「スウェーデンいいなぁーデスメタルいいなぁー」と大層うらやましがるので、どんなものか興味があって、フレドリックに連れられてCD屋に行き数枚買ってみた。フレドリックはスウェーデンから日本、またまたよくわからない国のロックに精通したロックジャンキーな人間であったため一緒に多くのCDを貸してくれた。
このデスメタルと言うものが・・・まぁまぁ日本では絶対受けなそうな辺りとか色々な所で個人的にヒットした。ついぞ勢いに任せ、「IN FLAMES」と言うスウェーデンバンドで有名なデスメタルバンドがイェーテボリでライブをすると言う話を聞き、チケットを取ってしまった・・・。これはまだ僕がスウェーデンに留学して2ヶ月くらいの時であり僕のスウェーデン観に大きな影響を与えた。
金髪を無造作に伸ばした背が高いいかつい男たち、もはや怖いとしか言いようがないメイクの女の子達が一斉に集まり雄たけびをあげるライブ会場で僕は一人「スウェーデン最高かも」と変な陶酔に浸ってしまった。後々から考えると、やはりこのデスメタルも鬱パワーを基礎にしているような気がした。長い冬はスウェーデン人の若者をこのような方向へ導いているのか、なんなのか。とにかく僕が決めた事は「スウェーデンで気に入ったギターを買おう」と言う事と「留学中は一回も髪を切らず伸ばしてみよう」と言う事であった。実際、自分でも気持ち悪いと思うほど長髪になり、日本に帰ってきてからしばらくは非常に恥ずかしい思いをした。スウェーデンではなんともなかったのになぁ。
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正しいスウェーデンでのスポーツの仕方
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少しずつ日照時間が長くなりつつある晩冬、ある一通のメールが僕の手元に届いた。それはイェーテボリ大学のクリスマスパーティで出会ったスウェーデン人経済学部生のヨハンさんからのメールであった。彼のメールには彼はフロアボールと言う室内アイスホッケーの社会人選手であり、もしよければ試合を見に来ないか?と書かれてあった。スポーツは見るのもやるのも好きな僕は当然の如くOKの返事を送り、試合の日を楽しく待った。
当日、僕を試合会場まで連れて行ってくれたヨハンさんの友達3人は同じく経済学部生であり皆、1年だけ日本語を勉強していた(どうやら日本経済について勉強していたらしい)こともあり、非常に楽しくお話をしてくれた。彼らは社会人サッカーチームを作っており毎週練習していること、ヨハンさんは実は社会人チームのキャプテンであり、かなり有名なプレイヤーであること、等を話すうちにあれよあれよと言う間に、僕も春になったらそのサッカーチームに入ることになっていた。
フロアボールとは、日本ではなじみのないスポーツだが、アイスホッケーのルールで、普通の体育館でシューズを履いてプラスティックの軽いボールを使ってやる、スウェーデンでは一般的なゲームだった。ヨハンさんのチームは「なんとか(読めない)パイレーツ」・・・なるほどやはりスウェーデンは海賊、バイキングの国。総合順位は中の下あたり。対する相手は総合順位トップのチーム。しかもそこのエースは超有名、スター選手らしい、これは応援しがいがある、と弱いチーム好きの僕は燃えに燃えた。
結果は残念ながらヨハンさんのチームの逆転負け。非常に惜しいところまでいったのだが、後半途中ヨハンさんが捻挫で試合に出られなかったことが響いた。試合後、ヨハンさんの所に行くと「これから病院にいかないといけないんだ。本当はもっと格好いいところを見せたかったよ」と残念そうに涙ぐんでいたのが印象的であった。
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そして春、サッカーのシーズンの到来だ。と言ってもサッカーの本場イタリア等ではこの時期はすでにシーズン終盤なのだが、スウェーデンでは違う。スウェーデン・リーグの試合にも足を運んだ。イェーテボリには2つチームがる。優勝争いをする強いチームと降格争いをする弱いチーム。もちろん僕は後者のチーム「IFKイェーテボリ」のファンだった。
1500円くらいのチケットを当日買い、適当に前のほうへ行く、勝てば喜び、負ければブーイング。それだけの事だがイェーテボリ中のサッカーファンと一緒に熱くなれた。ドイツでもサッカーを見てきたが、やはりヨーロッパにはサッカーが根付いている。文化の一つと考えても絶対に間違えでは無い。
文化が根付いている証拠にイェーテボリでは広大なサッカー練習場が街のど真中にあり誰でも使えるようになっていた。どれくらい大きいかと言うと砂の両面コートが6,7個、芝コート(こちらは予約制)が2面。札幌でその位置関係と大きさを言えば、メインストリートが狸小路だとすると、大通り公園2,3丁分がサッカーコートに当てられていると考えてもいい。このコートでは子供はもちろんの如く、多くの社会人チームが毎日のように練習試合を行っていた。
僕もその中の一つのサッカーチームに入り、週1,2の練習につき合わせもらった。最初の頃は遠慮もありなかなかコミュニケーションが取れなかったが次第に「もっと前からぶつかっていけ」等様々なアドバイスをもらい、コミュニケーションも取れサッカーを出来るようになっていった。残念な事に4月から6月までは僕も旅行などで忙しく、試合に1回しか参加出来なく、あまりチームに貢献できなかったことだ。しかしスウェーデン人の身長は高い、体格がいい、上手い、人たちの中でサッカーをやれた事は一生の宝であり自慢できる事の一つだと思う。
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正しい日光浴の仕方
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春が来た。僕は色々な所に旅行したが、イェーテボリに帰ってくる度に故郷に帰ってきたような安堵感があった。むしろ旅中も思い出すのは日本のことじゃなく、イェーテボリやスウェーデンの事ばかりであった。それくらい僕はスウェーデンに夢中になっていた。5月の僕の誕生日付近に、僕はスウェーデンのヘルシンボリと言う街へ旅に出かけた。その街の郊外にあるソフィエロー宮殿に行くことが目的であり、そこでスウェーデンを満喫したいと思っていた。天気予報では雨だったが、ソフィエロー宮殿に着く瞬間に空が晴れた。
この時ばかりは本気で神様を信じた。
ソフィエロー宮殿は国立の植物園でもあり、ちょうど薔薇が咲き始める事もあって大変素晴らしい場所であった。年寄りばかりで、日本人のしかも20代前半の青年がこんな所で観光しているなど思いもしないのだろう、至る所で不思議そうな顔で見られたり笑顔で挨拶されたりした。この頃になるとスウェーデン語は分からなくてもなんとなく慣れで、乗り物の乗り方や場所の見つけだし方が分かるようになる。いたって順調な旅であった。
むしろ順調すぎて帰りの列車まで時間が余ってしまった。ヘルシンボリは海沿いの小さな街で、アトラクション等もあるわけでもない。どうしようもないので海岸沿いのベンチに横たわって昼寝をし日光浴を始めた。その時の青空は今でも思い出す。スウェーデンの国旗の青と黄は「青空」と「太陽」を表すのかなぁ、と子供じみた考えが浮かんだ。
あの暗い冬を越えて、ようやく見る事の出来るスウェーデンの空は極端に鮮やかだった。
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正しい帰国の仕方
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ここで終われば、この報告記は非常に綺麗なもので終わったであろう。しかし最後の最後にケチがついた。危うく僕は帰国出来なくなってしまったのだ。
原因は「SARS」-そう例の事件である。僕は本当ならば、帰りは一番安い方法ということで香港経由の飛行機のチケットを早めに予約しておいたので、それに乗り千歳に着くはずだった。しかし、だ、この事件のため香港に飛行機が飛ばない事が発覚、香港に行っても札幌までは出ずに大阪にしかいかないと言われ、札幌までの道のりは急に遠くなった。このため急遽、エールフランスで成田経由、千歳行きにしてもらい事なきを得たが、本当に自分には関係ないと思っている事件でも案外繋がっているものだ、と実感したのである。エールフランスを使っても、札幌からイェーテボリまでの価格とイェーテボリから札幌までの価格の差に2倍程あるのはどうにかして欲しいものだ、と思った。
これにておわり。
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留学報告記データ
氏名: 富樫 功
留学先:スウェーデン、イェーテボリ
期間:10ヶ月
留学の種類:交換留学
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留学の動機
1、 西洋経済史の学問を深めるため、西洋に一度足を運んでみたい
2、 英語を使っての生活をしてみる
3、 純粋な憧れ
*留学までのスケジュール
2002年11月 交換留学枠に応募
2002年1月 正式に決定
2002年2月 春からの予定を秋からの留学にしてもらう
2002年8月末 イェーテボリへ
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費用
学費―交換留学より北大に納入
渡航路―詳しくは覚えてない、が行きは高く、帰りは安い。
生活費
寮費 40,000円程×10(光熱費・インターネット代込み)
食費+交通費+その他旅費(一年間通して) 1.000.000円
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ゼミの教授からもらった本
岡沢憲夫・宮本太郎『スウェーデン・ハンドブック』早稲田大学出版、1997年。
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