中国 東北財経大学 私費中国語留学 (宇佐美 Vol.1)

アジア

名前:宇佐美陽子
留学先:中国大連市 東北財経大学
期間:2001.3.3~2002.1.16 (大学2年終了後)
留学の種類:私費留学

vol1_usami_map
*
留学の動機:
以前から開発援助に携わる仕事をしたいと強く願っていた。そのため、途上国の一面を持ち、かつ急激な速さで発展しつつある中国という国を自分の目で見てくることは大変有用なことであると思っていた。それもあって大学の第二外国語では中国語を選択していた。しかし、私の場合、留学の最終的な決断は気持ちが中国に強く引き寄せられたことにある。大学2年の春頃から中国に留学しようという気持ちはあったが、最終的な決断をしたのは夏休みだった。
夏休み、東京にあるNGO・地球緑化センターの主催する、内蒙古植林ボランティアに参加した。活動場所は、内蒙古のエジンホロ旗という所で、そこは砂漠化の深刻な地域である。それは私の初めての中国訪問であった。日本には当たり前に揃っているものが不足しているエジンホロ旗での生活、私の目にはその全てが新鮮に移り、楽しくて楽しくてすっかり中国に魅せられてしまった。一週間のボランティアを終え帰国した頃にはすっかり中国好きになって、すぐに留学手続きを開始した。
私の場合、もうひとつの悩みは部活動であった。部活がある以上、夏休みなどはびっしり練習があるわけで、決して休むこともできず、夏休みの短期留学、ボランティアなどはほとんど不可能であり、緑化センターのボランティアもやっと行けたものだった。部活も中国もどちらも諦めたくはなかった。今しかできないことってなんだろうと考えた。私にとってはラクロスも中国留学も大事で、どちらも今しかできない。欲張りに両方やりたかった。だから、思い切って休学し、一年間思いっ切り中国に浸かってくることを決心し、ラクロス部のみんなには、一年後必ず復帰することを約束した。
*
留学までのスケジュール:<2001年>
5月 留学したいな…と思い始める
8月 中国に行くことを決意
9月 大学選び
中国留学の本の中から好きな大学をいくつか選び、行きたい大学の留学生窓口の事務所に手紙を書く。親切な大学なら2週間で返事(いきなり入学許可証)を郵送してくれる。不親切な大学は2ヶ月後くらい。中国留学に関しては、準備をそんなに焦らなくてもよいと思う。
10・11月 健康診断(留学先の大学に提出)、ビザ取得(Xビザ)
2月 引越し準備
3月3日 中国へ
中国の新学期は9月1日と3月1日。中国留学は基本的に手続きが楽。寮の部屋さえ空いていれば、突撃訪問して「入学したいんです!」と言えば入れてくれる大学も多い。しかし、やはりそれは不安なので、事前に準備するならば、郵便事情の悪さを考慮して手続きした方がよい(一般郵便は1週間~10日、しかしよく紛失する)。
*
費用:
物価が安いため、バイトで稼いだお金だけで行くことも不可能ではない。
留学1年間の総費用…約70万
学費:1年 1600ドル(現地で現金で払う)
寮費:1日6ドル(一人部屋、トイレ、シャワー、家具付)
学校の外にアパートを借りれば、1ヶ月位1万くらいで、3部屋くらいあるかなりいい部屋に住める
渡航費:私の場合、一時帰国する必要があったため、3ヶ月オープンを購入
往復チケット約6万
生活費:一般的な中華で、一食約100円。バス一回15~30円、タクシー初乗り100円。
諸々を含め、1ヶ月約15,000円。
*
留学先での生活(どんな一日を過ごすか):
6:30 起床
夏場は毎朝ジョギング。
8:10 授業開始
12:00 授業終終了。外で昼食。
午後
特に何もないので、お昼寝、予習。
たまに課外活動(太極拳、武術、習字など)
週に一回、語学交換(2時間)
19:00 外で夕食
20:00 テレビ
23:00 就寝
土日はソフトボールの練習、他大学との試合。
*

それぞれの国の評価(5段階 1=最悪  5=大満足)
・ 物価  ☆☆☆☆☆
・ 治安   ☆☆☆
・ 国民性  ☆☆☆☆
・ 食   ☆☆☆☆☆
・ 空気    ☆☆

*
学校のカリキュラム:
私は本科生ではなく、「漢語進修生」であったので、授業は中国語のみ。1班(上級コース)から5班(初級)までに分けられる。内容は、精読・聴力・口語。これ以外に、課外授業として、料理・太極拳・習字・英語などがある。
*
語学情報(検定、進学への必要スコアなど、難しさ、努力):
漢語進修生は中国語検定、HSKなどの語学検定は不要。事務所に行って、「私はこんなに話せるんです!」と先生に言えば、上級クラスにも入れてもらえる。
中国に留学している人はだいたい現地でHSKを受験する。1年間いたならば、5、6級くらいは取れるはず。本科に入る場合は、HSKの成績証明が必要になる。
*
検索ツール、本の紹介:
『地球の歩き方 成功する留学;中国、韓国、アジア留学』(ダイヤモンド・ビッグ社)ここに、大学への手紙の書き方、留学一連の手続き、各大学の留学生事務所の住所やカリキュラムなどが掲載されている。
*
*
1.留学生活開始
*
私は大学で第二外国語として中国語を選択していたものの、明らかにクラスの中で落ちこぼれであった。先生に、「はぁ…。君に音読をさせたら日が暮れてしまうよ…。」と言われたことも。留学するそのときまで、「ニーハオ」と「私は宇佐美陽子といいます」くらいしか話せなかった。これではやばいんだろうなあと思いながらもとりあえず中国上陸。空港まで大学の先生が迎えに来てくれたので、ひとまず安心だった。しかしその後、大学の事務室に通され、手続きをする際、授業料の払い方などを聞きたかったが、何もわからなくて、笑ってごまかすしかなかった。
初めの4、5日、銀行に行ったり、生活用品も揃えたりなど、することが多く、毎日街に出かけた。しかし、方向音痴で、何も話せない私は、一人のときはかなりびくびくしていた。道に迷ったり、軽くぼられたり、友達とはぐれたり、バスがわからなかったり、と毎日何かが起こって、夕方必ずぐったり疲れて帰ってくる私。それを見て、友人は、「あんたは毎日がアドベンチャーで楽しそうやなあ…」と言う。私の気分はもうかなりいっぱいいっぱいなのに。この生活に慣れる日がくるのだろうか?、街の人と普通に話せる日が来るのだろうか?、1年間このまま?!と不安を抱いて最初の1週間を過ごした。
しかし、中国語の能力がほとんどゼロであったため、吸収することばかり。最初の2週間くらいは、中国語力がおもしろいほどに伸びた。楽しさにはしゃいでいる間に3ヶ月が過ぎていた。
*
2.食生活
*
中国にいて何よりも幸せだったのは、毎日安くておいしい中華料理が食べられたこと。
本当においしくておいしくてたくさん食べた。小龍包を初めて食べたときは感動して涙が出そうだった。東北地方だったので、羊もたくさん食べたし、朝鮮族の料理もよく食べた。中国に行く留学生、特に女性は、必ず太る。ちなみに、洋食、ファーストフードは高級品。マクドに行くと、一食300円くらい、その他の洋食は700円くらいかかった。
*
2-1.虫の話
*
ある日、中国人の友人が私を含めた日本人3人を連れて炭火焼の店へ連れていってくれた。何を食べさせてくれるんだろうと思っていたら、タレに漬け込まれた黒い蚕がお皿にいっぱい盛られて運ばれてきた。タレの中で虫たちはうようよ動いている。叫び声をあげている私の目の前で、中国人たちはそれを炭火でこんがり焼いておいしそうに食べていた。とても食べる気にはなれなかったが、虫を食べたなんていう、こんなおいしいネタを見逃すのが悔しくて、私は虫の小さなかけらを食べた。たらの白子に似た味がした。
翌月、彼の実家に遊びに行った。彼のお母さんがまたもや炭火焼の店に私を連れて行ってくれたのだが、また虫が出てきた。「さあお食べ」と私の取り皿に3つくらいぽんぽんと載せてくれた。彼のお母さんのすすめを断るわけにはいかず、私は食べた。さらにもう一匹。今やもう平気かも。
*
2-2.マナー
*
食事が済んだあと、そのテーブルがどれだけ汚く食べ散らかされているかが、その食事への満足を表す、と以前祖父から聞いたことがある。つまり、汚ければ汚いほど、今日の御飯は美味しかった、ということを表すのだ。これが本当かどうかはわからないのだが、実際それを目の当たりにして、正直なところひいてしまった。
例えば、中国人は食前にひまわりの種を食べる。私は、後ですてようと思って種の食べカスを手にもっていたら、「ああ、そんなもん床に捨ててしまえ」と、周りの中国人はぺっぺと床にカスを吐き出す。また、骨付きの肉を食べたとき、骨のカスを捨てる場所がなく、どうしようかと思ってキョロキョロしていたら、「ああ、ここにおけ」と、口から直接ぺっ!とテーブルの上に吐き出した。おかずをテーブルの上に落としてしまっても絶対に拾わない。食事の後のテーブルはものすごく汚いのだが、それは心配する必要もなく、お客が帰った後は、従業員が大きなタライを持ってきて、テーブルの上の食器や残飯やゴミを一気にがーっとタライの中に入れて、その後お茶をかけて、さっと拭く。見事だった。
こんな風景に最初は戸惑っていた私も、気がつけば半年経つ頃には同じことをしていた。
*
3.交通事情
*
中国にいる間、信号というものをほとんど見かけなかった。それでも現地人は器用に道を横断する。四車線の道ならば、一車線ずつ渡っていく。一つ渡って車が来れば、道の真ん中で通り過ぎるのを待ち、また一車線、また一車線と渡っていく。人はみんな車がよけてくれると思っているし、実際車も器用に人をよけて走る。鈍い私は最初苦労したものの、いつのまにかそれが普通になって、日本に帰国した今でも、ふと日本であることを忘れ、危ない目に遭う。
*
4.旅行
*
4-1.初の中国人宅訪問
*
私が大連に着いて一週間後のこと。北大に留学している中国の友人が帰省したので、瀋陽にある彼の家を訪問した(3泊4日)。初めて豚の耳を食べた。豚の耳、足、内臓など豚の全部を食べさせてくれた気がする。
彼の家にはお風呂がなかったため、洗面器で髪を洗った。洗面器たった2杯だけですすぎまでの洗髪一連の全ての作業が可能であったことにちょっと感動。
*
4-2.初めて一人で出かける: 裸のおじさんたち
*
7月、学期終了したその日からすぐ旅行に出かけることにした。行き先は内蒙古のフフホト。大連からの直通列車はないのでひとまず北京へ。
一人で長距離の列車に乗るのは初めてだった。特快(9時間)の切符が手に入らず、仕方なく普快(15時間)の寝台を買った。が、列車も古いタイプで空調設備もなかったので、ひどく暑く、しかも私の周りはおじさまが多く、暑さのためみーんな服を脱いでいる。「はだかのおやじゾーン」である(街中でも服を着ていない男性をよく見かける)。
ちょっと怖くて3段ベッドの真ん中でひとり読書をしてできるだけ自分の世界に入り込もうとしていた私だったが、とうとう「はだかのおやじ」に捕まり、下に降りて来るよう言われた。私は彼らの話す言葉がよくわからず、最初答えに詰まり何度も聞き返していた。「私は日本人なんだからもっとゆっくり話して」と言うと、彼らそれまでは私のことを中国人と思い込んでいたので、「なんだ、お前のことただのバカだと思っていたが、日本人なのか!」と言ってきた。失礼な。
その後おじさまたちに囲まれ、ビールやおつまみをごちそうになり、気づけば彼らと車内で宴会をしている私(ちなみに、中国の列車では地面につばを吐いていいし、窓から果物の食べカスなどをどんどん捨てていいようだ!)。オリンピックが北京になるかどうか決定される日でもあったため、彼らは興奮気味であった。将来に関して説教されたりもした。翌朝、北京駅に着き、彼らと握手をして別れた。その後、列車に乗るたび、同じような経験を何度かすることになる。
やっと北京に到着した私であるが、北京に着いて数時間後、なぜかひどい吐き気と発熱が襲ってきて、倒れてしまった。やむを得ず次の日大連に引き返すこととなった…。
*
4-3.石林の老夫婦
日を改めて再び旅行開始。広州→雲南→四川→洛陽→北京→内蒙古→大同→北京→大連、という順番で回ったが特に印象的だったことを書こうと思う。
雲南省では、石林に行くことを楽しみにしていた。風雨による侵食や地震などで岩石が削られ、鋭い石山になっており、その姿が石の森林のようなので、石林と呼ばれる。
バカな私は、その日何も考えずにゴムサンダルで石林見学に来てしまった。さらに運が悪いことに、雨が降り出したのだ。雨の日にゴムサンダルで山を登る…なんて恐ろしい。案の定、10分に一回くらい滑ってこけて体にあざがいっぱいできた。
外国人の女の子が一人で、ふらふら歩いているのをほっておけなかったのか、一組の老夫婦が、私に声を掛けてきた。今回の旅行でどこに行ってもびっくりされるのだが、中国人にとって女の子がひとりで旅行しているのはとんでもないことらしい。その後、私を気遣いながら行動してくれ、また私に靴を買い与えて、一日中につきっきりで面倒を見てくれた。
彼らは天津で学校の先生をしており、きれいな標準語を話してくれ、とても安心だった。その日一日本当に私に対して親切に何から何までしてくれて、旅行後は手紙までくれて、感謝でいっぱいである。中国人の人付き合いの暖かさを実感できた一日であった。
こんな風に見知らぬ中国人に親切にしてもらったことはこの旅行中何回もあった。初めて訪れるその街その街で、わからないことだらけで不安そうにしているとき助けてもらったことは数え切れない。ぼられたのは広州と北京くらいで、その他の場所では、よくしてもらってばかりだった。
*
4-4.雲崗のおじさん
*
必ず世界史の教科書に出てくる雲崗の石窟、これを見れる機会がやってきた。大同の街に着き、一元バスに乗って、念願の雲崗石窟へ。
石窟までバス停あと一つというとき、私の前に座っている見知らぬおじさんが「お前も石窟で降りるんか?」と突然話しかけてきた。「そうです」と答えたとき、石窟のあるバス停に到着。降りるや否や、おじさんは「入り口はあっちらしい。よし、こっちだ、行くぞ!」と、私が返事をする間もなく、引き連れていく。
は?と思いながらも何となくついて行ってしまう私。この人何者?と思いながらも、写真を撮る場所も角度も枚数も、休憩も、見学する順序もなぜかおじさんペースに乗せられていた。どうやらおじさんもただの観光客の一人のようだ。おじさんの中国語は半分くらいしか聞き取れなかったが、ふんふん、と適当に相槌をしながら一緒に石窟を見学した。
数時間たって、おじさんは、「うん、お前の顔と、そのしゃべりはきっと蒙古族だな」と私に言ってきた。え?この人は私が日本人って知らなかったの?さっき言ったはず…。まあ蒙古族でもいいんだけど。
その後、石窟の前のベンチに腰掛け、休憩しているとき、おじさんはりんごをくれた。しかし、あれ、りんごがすごく生臭い。なんでだろうとおじさんの鞄を覗くと、りんごと小さな蟹がいっしょくたに入っている。蟹も食え、と差し出してくれたので、なんだか非常に微妙な気分でりんごと蟹を食べた。
なぜかその日一日おじさんペースで行動し、再びバスに乗って大同駅に戻ってきた。駅着き、おじさんと握手をしたあと、彼は「じゃあな!」と言ってどこかへ消えていった。結局おじさんの名前もわからない、何者なのかもわからないまま別れた。
これらのことは、みな中国だからこそ経験できたことだと思う。中国人は人の付き合い方というのがとても密だ。列車などに乗ると、9割方横の人が話しかけてきて、お菓子や果物をくれる。知り合いになった後の親切さが半端ではない。たとえ、列車の中の数時間でも、その時間は心と心で会話する。裏を返せば人のプライバシーにずかずか入り込んでくるので、いいことばかりではないのは否めないのだが、しかし、人間関係が希薄になりつつある現在の日本の中で育った私にとって、中国でのこの経験は、とても貴重なもので、心を暖かくしてくれるものであった。
*
5.日本に帰ってきて
*
中国は時間の流れがとてもゆっくりだ。中国の学生がとても勤勉なのは事実だが、でもどこかのんびりしている。
帰国して一番思ったことは、日本の生活はなんだか慌しいことだ。特に私の場合、帰国後すぐラクロス部に復帰し、幹部の役職についたため、忙しさにやられてしまった。日本の生活にしばしの間戸惑った。日本の生活にも慣れてしまった今思うことは、留学中はあののんびりした雰囲気に流されていたなあということだ。今、日本で、時間を見つけてはあれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、とせかせか動いているのに、大連にいた頃は、午後は本当にのんびりしていた。あの時間をもっと有効に使えたのではないかというのが、やや心残りではある。しかし、一年間中国にいて中国ペースで生活していたということは、まさに中国にどっぷり浸かっていたということで、全く後悔はない。
若い頃の時間はとても貴重なものだと思う。ぼーっとしていたら時間はどんどん過ぎていく。今しかできないこと、今やりたいことを思い切りやる、これはとても幸せなことだと思う。自分が満足いく人生を歩むにはどうすればいいのか、それを考えることさえしなければ流されるだけの人生になるし、でも考えただけで何もしなければそれも意味がない。思ったことを必ず行動に移す、これも大切なことだと思う。その結果が私の場合中国留学だったわけだが、それは当然人によっては異なる。とにかく自分のやりたいことに対して、何か具体的な行動を起こし始めたその瞬間からその人の人生は変わっていく気がする。
それにしても、私は留学して何か変わっただろうか。とりあえず、ちょっとだけ強くなれたかな。
*
[まとめ]中国に戻る、カンボジア 地雷博物館 ボランティア(宇佐美Vol.2)日本語教師入門 (宇佐美 Vol.4)