凱旋門の内側から見た初夏の青空 (フランス) (Vol.1)

留学コラム

 突然、世界が白く輝く時がある。ある初夏の日を境にして、厚い積層運に閉ざされたようなパリの空気が、急に透明感を帯び、建物の壁も、道路の舗石も、町全体がいっせいに発光し始めているのである。最も記憶に残っているのは、初夏の青空を背景にした凱旋門のまぶしいまでの白さである。DEA論文の終了後、パリ建設土木界をテーマに設定したものの、史料収集は難航していた。先行研究は数多くあり、手がかりがまったくないわけではない。が、国立文書館(マレ本館)や、そこから移転したばかりの労働界文書館(ルーベ別館)に通っても、他の博士論文で扱われていないような新しい企業資料、組合資料が一切見つからないのである。
 1963年創刊の実験的な「企業史」も廃刊となって久しく、企業史というアプローチ自体が、組織史という新しい鎧で再生しつつある最中だった。
 国立パリ社会科学高等研究院で師事したF先生が、「アナール」編集部の「危機」宣言に対する一群の回答のひとつとして、現代組織史を提案して「組織――新たな研究対象――」を「アナール」誌で宣言したのが1989年(特集号「歴史と社会科学――危機的転回か?――」)。その路線を突き詰めて「企業と歴史」誌を旗揚げしたのが、ぼくがフランスの地を踏んだ1992年4月だった。「アアナール派第4世代」と呼ぶのは時期尚早としても、「1990年代アナール」は、シャルチエ近代文化史だけに止まらず、種々の領域で新鮮な胎動を始めていた。
 情報渇望症の我々院生が、書店流通をしていなかったダルトヴェルとイルデシェメールの最新ハンドブック「企業史史料論」を探し求めて、出版元のケース・デバルニュまで次々と巡礼に出かけたのは1995年。この頃には、クロジエやトゥレーヌを信奉していた労使系社会学院生も、アメリカ流組織論を取り入れて変身し、企業人類学や組織文化学のような新分野を名乗って、社会科学高等研究院の我々の現代経営史ゼミにも出入りし始めた。ゼミ終了後の研究院カフェテリアでの昼食では、資料提供と研究公表をめぐる企業側との倫理論とパワーポリティックスが、歴史学生と社会学生の共通の議論となった。
 既存の公文書館に頼っていては史料はない。誰もが足を使っていた。ぼくも、19世紀に起源のある建設企業・業界団体・労働組合を全てリストアップして、次々に研究趣意書を添えた手紙を書き、無駄と思っても足を運んだ。100通送って、返事は3分の2。関係者が実際に会ってくれる確率は4分の1。何らかの史料が存在し、それを閲覧することができ、さらに、近年の歴史分析には大変重要なのだが、その複写を許可してくれること。この3条件を満たす幸運は奇跡に近い。
 パリ建設連盟、全国建設連盟、建設科学技術センター、建設土木研究実験センター、職人組合「掟派」、職人組合博物館、労働会館、デュメズ社、リヨネーズ・デ・ゾー社、フランス電力等々、お世話になった方々については感謝の気持ちが尽きない。
 暗中模索の中でくじけそうになったとき、掟派職人組合の大工の親方フロ氏が、見ず知らずの外人学生であるぼくを手作りの書斎に招いて、丁寧に話をしてくれた語り口を思い出した。「職業学校では仕事(metier)を学ぶだけだ。我々職人組合では、仕事を愛すること(aimer le metier)を学ぶのだよ」。この言葉は、学問の「徒弟」として「遍歴修行」中の身には、大工職人の心意気を超えた普遍的な至言として、胸に迫った。修行自体は苦しくても、仕事だけを学ぶのではなく、仕事を愛することを学ぶ。職人組合の数百年の歴史で培われたこの感動を、僭越ながら、学問の世界で次世代に伝えたいと密かに願った。
 中華街の中にあった、建築家協会文書館では、未公開のアンネビック社史料を書庫で見せてもらっている際に、横で未整理のまま積み上げられているフランス建築家連合組合史料を偶然発見した。閲覧・整理・掃除しながら、史料目録を作成し、書庫立ち入り許可の礼に文書館に寄贈した。が、論文執筆のためにはまとまった史料がなかった。
 全国土木連盟には、創立以来百年間の史料が存在するという。以前、ソルボンヌ大学のB先生だけが地下鉄建設期の部分を閲覧したが、その後、研究者には扉が閉ざされてきた。日本などと同様、行政とのつながりが最も深い業界団体であり、内部資料を公開しないできたのは当然とも言える、こちらからの史料閲覧申請の手紙にも、「本連盟の史料は外部公開しない」と美しい便箋に会長名の署名で返事があった。それでも、きちんと対応してくれた礼儀として、他の団体・組合・企業で調査を続けながらも、折に触れて研究計画書を書き足し、研究の進展を報告していった。
 半年後、全国土木連盟の文書担当者が面会に応じてくれるという。シャンゼリゼ通りの本部まで会いに行ったが、連盟のパンフレットをくれた以外に、とくに好意的な反応はなかった。研究経過を送り続けてまた数ヶ月後、その上司の調査課長から面談許可。非売品の連盟史小冊子を分けてもらったが、史料閲覧の交渉の余地はなかった。さらに数ヶ月後、ビジネスシステム論にネットワーク仮説をクロスさせた論文序章分を送ってしばらくして、会っても良いとの手紙。今度の面会提案者はいきなり書記長。たとえ役員であっても土木関係者の朝は早い。朝8時のシャンゼリゼ通りに、慣れぬネクタイを締めて駆けつける。
 書記長は、何をどれくらい見たいのかといくつか質問をした後、文書係長を呼び出して、これから彼の史料閲覧の便宜を図ってやれ、と指示を下す。長く閉ざされた文書館の扉がポンッと開いた瞬間だった。研究経過を送り続けて1年間が経過していた。
 印刷機と梱包期の騒音が鳴り響く作業室に机をもらい、週2回、朝に文書係長の案内で中に通され、作業室で史料を自由に閲覧・複写することとなった。、ただ、仏政府奨学金をはじめ3つの助成を7年間引き伸ばした貧乏奨学生には、凱旋門界隈で食事をすることはままならない。昼には、学生寮の同士の協力でサンドイッチの具を用意し、場違いとは知りつつ3フランのフランスパンだけを買って、シャンゼリゼのベンチで頬張って食べた。焼きたてのパンの熱さが忘れられない。
 初夏の昼下がり、全国土木連盟本部へ向かって、シャンゼリゼ通りを横切る。中央分離帯で立ち止まり左手を見上げると、車が流れていく先には凱旋門がある。その中に、海の深さを持つ晴天が白いアーチで半円状にクッキリと切り取られて見えた。パリも空も日本と変わらないはずなのだが、あの凱旋門に縁取られた蒼空の中には、ここパリに捧げた20代後半の喜びと汗、そして涙が光っている。
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