メキシコ グアナフアト大学 & グアテマラ アンティグア 私費西語・写真留学 (Vol.1)

アメリカ・オセアニア

グアナフアト大学(メキシコ)とアンティグア(グアテマラ)の西語・写真留学体験記

 

留学先

グアナフアト大学(メキシコ)とアンティグア(グアテマラ)のスペイン語学校・写真講座

期間

7ヶ月(2001年2月から9月)

留学の種類

私費語学留学(スペイン語)・専門学校留学(写真)

 

留学の動機

 

留学前・中でのスケジュール

 

費用:7ヶ月

 

国の事情

 

学校のカリキュラム

 

語学情報(検定、進学への必要スコアなど、難しさ、努力):

DELE、西検

検索ツール、本の紹介

 


中南米のバス

中米に地下鉄はない。更に列車もほとんどない。まあ当然といえば当然だけれど、そんなところに住んだことがなかったので、僕にはショッキングなことが多かった。そんな中米では、市民の足といえばバスである。バスしかない。タクシーもあるけど金持ちしか乗れないもんね。僕もタクシーにはほとんど乗らなかった。まあ、日本でも僕はタクシーなんか乗らないけど。さて、バスといっても色々種類があり、日本語では、一言でバスと言い表されるものも、スペイン語ではその種類により、違う単語を使う。以下は主にメキシコでの呼称である。ちなみにグアテマラは国土が小さいので、2等バスやデラックスバスはおそらくなく、目にしたのはチキンバス、シャトルバス、1等の3つだ。

まあ、料金の安いものから並べると大体こんな風になる。けれど、僕が好きなものから並べると順番は逆転する。まあ、それでは逆順番に解説を。

 

デラックスバス

デラックスバスは、スペイン語でルホと呼ばれる。豪華、華奢という意味だ。値段は2等バスの倍近くする。僕も1回だけガナファトからメキシコシティーへ行くのに使ったことがあるが凄かった。何が凄いかというと。先ず設備が違う。トイレ、ビデオはもちろんリクライニングが180度倒れる。これは凄く助かる。旅行においては、体調を維持することが重要であるから。他にも、軽食やジュース、更にコーヒー、毛布、枕などが配布され、これらは客室乗務員によってサービスされる。まあ飛行機のエコノミークラスよりは遥かに快適なのは言うまでもない。少し冷房が効きすぎるのが玉に瑕。

 

長距離1等バス

このバスは主に外国人旅行者、現地の中流階級以上の人々によって使われる。まあ僕も、6-7時間以上の移動には旅行中よく使った。特に治安の悪い地域では安全は金で買わないといけない。冷房付きで最新車両なので、値段は2等バスの1.5倍くらいする。が、それ以上のメリットがあった。僕はこのバスに最長36時間いたことがあるが、日本に帰ってよく聞かれるのが、食事と、トイレ、暇つぶしはどうしたのかということだ。トイレは1等だと備え付けられているので問題ない。そして食事はというと、売り子が乗り込んであれやこれや売りつけてくるので、これもまた問題ない。暇つぶしはというと、まあほっといても、隣の人が話しかけてくるので、いつのまにか時間がたってる。あとは、景色を眺めたり、それ以外は眠っているようにしていた。

 

シャトルバス

このバスについてはあまり一般的ではないし、あまり書くこともないのだけれど。旅行代理店なんかが所有してたり、契約してたりする。まあ乗合タクシーみたいなもので、ピストン輸送をその使命としている。学校のエクスカーションなどでもよく使った。中米よりむしろアメリカで空港とホテルの移動でお世話になった。

 

長距離2等バス

メキシコの庶民はよく利用している。1等バスよりも幾分安いが、クーラーはなく、トイレもない場合がある。しかもクッションもあまりよくない。さらに、停車地が1等に比べて多いので時間がかかる。安全面からしてもセキュリティーがいいかげんなので、ケチった観光客が乗って強盗に遭うのもこのタイプのバスである。しかし、マリアッチ(楽団)などが乗ってきて、なかなか楽しめることもある、もっとも下手な場合は迷惑なのだが。

 

チキンバス

ある意味で一番好きだが、ある意味で一番嫌いなバスでもある。グアテマラのチキンバスはアメリカのスクールバスの払い下げが使われている。その外装は「SCHOOL BUS」と側面に思い切り書かれたままで何の装飾も施されていないものもあれば、グアテマラ人の感性に合わせて、まるでケツアールのように派手にペイントされた芸術性の高いものまでいろいろだ。バスはどこに行くか行き先など書いておらず、出発前、車掌が大声で叫んで知らせている。
皆が乗って驚くのは、そのクッションの悪さと、車内で爆音でかかっているメキシコポップの趣味の悪さである。車掌は競い合っているのか、度胸だめしかわからないが、彼のシモベのバスが悲鳴をあげているのに、これでもかというくらいブッとばすのを使命としている。シートにすわれればまだいいが、座れない乗客は悲惨である。グアテマラではどうやらバスはある程度定員が決められていて、立っている客は警察がいそうなところに差し掛かるたびに、かがんで隠れなければならない。
そして、気を付けないといけないのは、すりである。グアテマラではすりは何も男性だけじゃなくて、インディヘナのおばちゃんもやっている。彼らもやりたくてやってるわけではない。ただ、生きるために手っ取り早いからだ。まぬけな観光客は何度でもやられる。彼らは自分の荷物を大事そうに抱えて乗っている。これでは大事なものが入っていますといっているようなものだ。一番重要なのは、みすぼらしいバッグで乗り、それを荷棚の上に乱暴に乗せることだ、そうすれば誰のバックかわからなくなる。
最後に、僕が一番チキンバスで楽しみにしているのは、運賃の集金係だ。だいたい少年がやっていて彼らはグアテマラでは無言で、メキシコでは金を片手にジャラジャラと、その存在を示しながらやってくる。彼らは誰が金を払って、誰が払っていないのかを完全に把握している。彼が間違えたことは見たことがない。これは、チキンバスがいつも日本の満員電車以上にギュウギュウであることを考えると、驚愕である。まさに芸術である。まあ、短距離を乗るなら、この上なく楽しいバスかもしれない。

 


お買い物合戦

グアテマラで暮らしていると、あんまりお洒落な物がないので、物欲はだんだんなくなってくる。あるのは精神世界だ。「ウサギの耳はなぜ長いのか」なんてことを一日かけて考えたりする。けれどもたまには、必要に迫られ、あるいは暇つぶしに、買い物に行くことがある。

 

メルカドの古着

僕が住んでいたのはアンティグアというところで、その中心は1キロ四方に人口2万5千人程度の小さな街だ。グアテマラの街には「メルカド(市場)」があって、そこにいけば大体のものは手に入る。そして毎週火、木、土はメルカドが盛んになる日で、土曜日には古着の市が立つことになっていた。古着が好きなので、毎週土曜日にはメルカドに必ずといっていいほど行っていた。
その日も土曜日だった。僕はいつものように朝起きて、錆びかけて開きづらいドアを開き家を出た。いつも通り、埃っぽくカサカサした空気だ。太陽はもうのぼっていて、アグアス火山はくっきり素敵にみえた。こんな日はそれだけで一日が保証されているような気がするものだった。道草をしながらもでも15分もあればメルカドには着く。インディヘナのおばちゃん達は、色とりどりのウィピル(貫頭衣の民族衣装)をまとい、朝だというのにせわしなく動き回っている。僕はひと通り、いろんなところをひやかした後で、目的の古着市に向かった。メルカドにある品物には値札がついていない。値段は交渉次第だ。いくつかの塗装がもうハゲハゲになった古着トラックをまわった。30分くらい見ていくうちに、ポケットの破れ方がイカしたカーゴパンツがあったので買うことにした。
「いくら?」「40ケツァル」
ここで重要なのは現実的な価格ではなく、絶対そこまでまけてくれそうにない値段を言うことである。
「高いよ、まけてよ、そうだな10Qくらい」「おどけて首を振る」
ここで重要なのは一端帰る振りをすることである。そうすると大概呼び止められる。この日も「30Q」と言われ、そこから交渉スタート。
何だかんだで25Qに落ち着いた。そしてここでまた一勝負。財布の中をみせて「20Qしかないんだ~」と切ない表情をうかべると、「しょうがねえなあ」という感じで、結局20Qで買い物を終えた。

 

貧富の差

なにか勝負に勝ったみたいで、僕は浮かれて、カーゴパンツを片手にメルカドを後にした。
僕は意気揚々と友達のインディヘナのお土産屋に行った。僕の友達のインディヘナはナディアというキチェ族(グアテマラ中部のマヤ族)の子だった。年は僕と同じで、当時22歳。笑顔が素敵な子だ。彼女はひと通り僕のスペイン語は変だと言って正してくれた後、ふと僕の戦利品を目に留めた。僕は得意になって、戦果をこと細かく話した。全部聞き終わった後、彼女は何ともいえない悲しそうな顔をして一言だけこういった。
「私達はあなたたち観光客から得られる収入が全てなのよ」。
この言葉はすごくショックだった。家に帰ってもずっとこの言葉の意味を考え、理解し、それでも自分の行為を正当化しようとした。
「たとえ値切ったにしろ、僕が買わなければ、彼らには20Qさえ手に入らなかったじゃないか」「値札がついてなくて、お互いの合意の値段でかったのだからいいじゃないか」とか。
これはこれで確かに間違っていないとは思う。けれども心が貧しい者の理論だ。
もし、僕が彼の言い値で買っていたら、彼は子供にノートを買ってあげられたかもしれない。家族でおいしいものを食べられたかもしれない。こんなふうに彼らの窮状を想像すること自体、先進国からきた者のエゴかもしれない。けれどもその晩、ベッドの上で、僕は考えずにいられなかった。
僕はグアテマラ人の平均月収がいくらかなんて分からない。貧富の差がありすぎて、平均なんてものを出すこと自体、意味のないことに思う。ただ、僕が住んでいた家のインディヘナのお手伝いさんの月給は600Q、日本円にしておよそ9000円だ。彼女らは14時間は働く。休憩があるにしろ、少なくともそのくらい拘束されている。しかも、住み込みでやっているので、家族には月に一度くらいしか会えない。そんなことを考えると、日本に帰った今でも、彼女らの月収を1週間で浪費していた僕は、一体何様なのだろうと思うことがある。彼女らの目に僕はいったいどのように映っていたのだろうか。

 


街並みに、海に、遺跡に、その他に – カンボジア・アンコールワット

僕は脱法的な趣味にはいまのところまったく興味がない。だから僕の海外での楽しみは、古い街並みと海と遺跡になる。街並みでは写真を撮りまくる。海では日光浴なんかしないで泳ぎまくる。遺跡ではボ~っとしまくる。お勧めのところは一杯あるけれど、今回はグアテマラ・メキシコの後に行ったばかりで、一番記憶に新しいカンボジアのアンコールワットについて書こう。

 

タイ・カンボジア横断バスの旅

タイのバンコクを出たミニバスは、カンボジアとの国境のアランヤプラテートで乗り換えねばならなかった。カンボジアに入ると、それまでと状況が一変し、道にボコボコと穴があいていた。道悪すぎ。こんな悪路は中米でもなかった。それでもバスは、その車体からか、それとも土煙かはわからないが、モウモウと煙を上げながら進んだ。バスの中はまるでジェットコースターのようで、落ち着かなかった。僕はタイで買ったジミヘンを聞きながら、この日の腹具合が良かったことになぜか彼に感謝し、やっぱりこの人は天才だなあなんて考えてると、隣の席の目がギョロッとした男の子が僕に話し掛けてきた。彼の名はブットといった。何でもタイで学生をしていて、今はカンボジアの故郷に里帰りする途中なんだとか。幼い男の子だと思っていたら、年は僕より1つ上で。そうこうしていたら、アンコールワットのある街シャムリアップにさしかかっていた。
着いたころには、あのベッコウ飴みたいな美しい夕陽も沈んで、あたりは思いっきり真っ暗だった。さて、宿はどうしようと考えていると、ブットが「俺のおばさんがやってる宿にこないか、綺麗だし安いよ」と言ってくれたので、ご厄介になることにした。宿に着くと、「明日はおれがアンコールワットに案内してやる」と一言。ラッキーと思うのも一瞬。その日は疲れていたのですぐ眠ってしまった。

 

遺跡でボーッとする

翌朝8時に約束していたのに。7時45分にドアがノックされた。はえ~よと思いながらも笑顔で挨拶。僕らはホンダの90CCくらいのバイクを2ケツして、遺跡に発進した。
頬で風を切って走るバイクの上は気持ちよく、それだけで幸せな気分になるには十分だった。アンコール遺跡群は広大なエリアの中にあり、僕はアンコールトムを見たあと、ワットに向かった。ワットの正面口に立ったとき「すげええええええ」と思わず感嘆を漏らしていた。久々に何か圧倒された。そして綺麗な苔がたくさん生えているワットの塔の上に登ったんだ。僕が遺跡に来てすることといえば、ボーッとすることにしているので、写真も撮らずに寝転んで空をみて色々なことを考えた。遺跡に関することを考えていたのか、それ以外のことを考えていたのかはわからない。けれども何を考えているかなんてのは問題じゃなく、そこにいるということに意味があり、幸せなことなのだ。
帰り道にブットがカンボジア鍋を食べて帰ろうと言った。カンボジア鍋とは、牛モツベースとおそらく味の素で味付けられたスープに、肉、麺、香草、野菜を煮込んで食べるものだ。これにブラックビールっぽい味のアンコール・ビールをつけるとたまらない。相乗効果でいくらでも飲み、食べてしまう。しばらくしてアルコールの十分浸透した僕らは、日本の女の子はこうだ、いやカンボジアの子はこうだなんて結論が出ない話を、顔や鍋にたかるハエを払いながら延々と続け、楽しい時間を過ごした。

 

旅の記憶に残るもの

ホテルまで送ってもらった後ブットが、
「たけし、明日プノンペンへはボートで行くんでしょ?」と聞かれたので、
「うんそうだよ。何で?」というと
「俺が予約してきてやるよ、お金頂戴」とブット。
なんていい奴だと、思ってお金を渡すと、ブットは部屋を出て行った。
僕は電話で予約するとおもっていたので、すぐ戻ってくると思ったのに、ブットはなかなか戻ってこない。30分たった。嫌な予感がしたが、まあ何かあったのだろうと思い気を取り直すが、まだ帰ってこない。1時間たった。これは金をもって逃げられたと思い、頭に来て、フロントに文句をいいに行った。
「チケット、ああこれのこと?さっきブットに渡しといてくれって頼まれたよ。予約は電話でできても、チケットがないと乗れないから、ブットは乗り場まで取りに行ったんだよ」。
だから、時間がかかったのだ。直接届けに来なかったのは、おそらく僕が疲れて、寝ているだろうと気を遣ったからだと思う。
僕はチケットを受け取り、ボートの絵の横についている金額に目をやった。
驚き、涙が出そうだった。
そこには僕が渡した金額より多い金額が書いてあった。
ブット、君のような人間を疑ってしまってゴメンナサイ。そしてどうもありがとう。アンコールワットには君にもう一度会いに行くよ。

 


パナマへ

グアテマラの生活も2ヶ月半ばが過ぎたころ、家と学校の往復で勉強ばかりしていたので、さすがに嫌気がさしていた。まあ、マンネリ化していた。そうだ、パナマへ行こうと思ったのは、丁度そのころだった。パナマへと思った理由は、運河だ。小学校のころ教科書で読んで、人造運河というものにすごく憧れていた。どうしても見たかった。思い立ったが吉日というが、僕はその日授業が終わった後、校長に快く10日の休みをもらい、次の日にはパナマへ出発した。

 

中米縦断バスの旅

パナマへ出かける手段は限られている。鉄道はメキシコや中米ではほとんど走っておらず、実用的ではなかった。飛行機という手もあったが、高い上に、「どこでもドア」のようで、僕は好きじゃなかった。消去法でバスで行くことにした。グアテマラシティーからパナマシティーまで583Q、日本円片道9000円程で、TICAという国際バス会社が直通便を出しているので、往路はこの高級バスで行くことにした。直通といっても、昼夜走っているわけではない。夜は運転手も休むので、一カ国につき一泊はしないといけない。停車地はサンサルバドル(エルサルバドル)、マナグア(ニカラグア)、サンホセ(コスタリカ)、パナマシティー(パナマ)で、最短で片道3日半はかかる計算だ。
高級バス車内は至極快適で、トイレもついている。食事も、たまに売り子が乗ってくるので問題ない。ただ、まあ欠点は、冷房がイヤというほど効きすぎて、寒いことであった。
都市部を離れ、道は日本に比べて多少悪いところもあったが、気になるほどではなく、バスは順調に進んでいた。バスでの長い移動というと、乗り物酔いをする人には辛いらしいが、僕は生まれて一度も乗り物酔いなどしたことがなく、むしろその揺れが気持ちよくていつも寝てしまうのだ。このときも、景色を見て感慨に浸かるのもつかの間、しばらくするといつのまにか寝てしまっていた。

 

エルサルバドル-活気と殺気-

何かザワザワまわりが騒いでいるので起きると、なんと、グアテマラとエルサルバドルとの国境についていた。じつは陸路国境を越えるのは初体験で、しかもこの日は5月5日、僕の22歳の誕生日であった。イミグレーションはこれまで僕が見たどんなものよりも粗末なものだった。観光客より現地民の方がはるかに多く、そこも何か新鮮に感じた。出入国手続きは何か思ったよりあっさりしていて、まあ猿岩石(ヨーロッパ大陸横断ヒッチハイク)のように感慨深くはなかった。所詮国境なんて人間がつくったものだから、その前後で劇的に何かが変わるなんてないんだね。
エルサルバドルに入ると、その年の1月の大地震(2001年のエルサルバドル大地震)の影響で、いたるところで橋の復旧作業を行っていた。しかし、バスは滞ることなく、順調に進み、首都サンサルバドルに夕暮れ時についた。このとき、僕の目には多くの子供や家族連れなどが写り、少し意外に感じていた。サンサルバドル、スペイン語で「聖なる救世主」を意味するこの首都は、1980年にファンブラント・マルティ民族解放戦線(FMLN)の結成により、12年間の内戦の舞台となっていたからである。いや、中米の国ではエルサルバドルだけではなく、グアテマラも、ニカラグアも同じような内戦の歴史を持っているのだが。それにもかかわらず、子供には笑顔がみえ、首都とは思えない小さな街は活気にあふれていた。
バスを降りて、僕はその日の宿をさがした、次の日早いのでバス会社のオフィスに近い、お世辞にも綺麗とはいえない宿に泊まることにした。宿帳に記帳していて驚いたのは、なんと僕以外にも2人日本人が同じ宿に泊まっていたことだ。本当に日本人はどこにでもいるなあ。部屋に荷物をおろし、一息ついて、ひどく腹が減っているのに気づき、夕飯を食べに行くことにした。海外に来て、うまいものが食べられるのは、観光客向けレストランよりも、地元民でにぎわっている食堂だと、このころには身をもって体験していたので、バスのなかで目をつけていた食堂に行くことにした。まあ、もっともサンサルバドルには、観光客向けのレストランなど、数えるほどしかないとおもうが。
よほど東洋人が珍しいのだろうか、食堂で突き刺さる視線を感じながら、僕はスパゲリーを頼んだ。ひどくまずかった、塩味しかしなかった。この日ほど自分の選択ミスを悔やんだことはない。食堂を出て驚いたのは、あれだけ賑わっていた街に、日暮れとともに人っ子一人いなくなっていたことである。昼間は感じなかったが、こうなってみると、サンサルバドルの治安の悪さを実感できた。月明りに照らされる夜の道を僕は一人、背後を気にしながら宿まで帰った。ひどく長い道のりだった。

 

ニカラグア-平穏と不穏-

次の日も僕はバスの中にいた。サンサルバドルにしばらく滞在しても良かったが、あまり見所がなさそうなので、先を急ぐことにした。この日は国境を2つ越えることになった。エルサルバドル→ホンジュラス→ニカラグアである。ホンジュラスとニカラグアの国境越えのところには、もう何の感慨もなく、反対に「だり~よ」と思っていた。馴れとは怖いものである。ニカラグアの首都マナグアに着いてまたまた驚いた。本当にこれが一国の首都なのか、と思うほど何もない。インターコンチネンタルホテルを除けば、まるで村であった。
バスを降りると客引きが大勢待っていた。そして暑い暑い。しかもこのときは知らなかったのだが、日本人狩りが当時流行っていたらしい。帰国後、外務省のホームページで見ると、僕のマナグア滞在の10日前、日本人男性が拳銃の尻で殴られ、なぜか日本円30万円を強奪され、僕の滞在の1週間後、日本人女性が尻を拳銃で撃たれたらしい。マナグア恐るべしである。だけど、そんなことを知らない僕は余裕綽々で、バスで知り合ったケニア人のおっさんと夜の街を散歩していた。おまけに、ニカラグアにもあるのかと驚いたマクドナルドに入って、ハンバーガーをほおばっていた。味は日本のものと大差なかった。ただ、ジュースの容器は考えられないほど大きかった。

 

コスタリカ-牧童と美人-

次の日もバスの旅は続いていた。よく覚えていないが、毎日平均12時間くらいはバスの中だったように思う。ニカラグアはまだ交通量が少なく、いまだに馬車がタクシー同様に重宝され、馬に乗ったカウボーイや、牛を追う牧童なんかが多く見受けられた。道路に牛が出てきたので、バスがちょっと停車した。そのときに、牧童の少年と目が合った。なんとも言えないような顔をして僕らを見つめていた。同じようなことがチュニジアであり、僕はそのことを思い出していた。あれも観光バスでの旅行中、ガソリンスタンドに停車したバスをじっと見つめている少年がいた。ぼくはその少年を高いところから見下ろしていた。彼らはどんな気持ちで僕らを見ているのだろうか?
きっと、「何だ、こいつら、自分達はみせものじゃない」とでも思っていたのだろう。僕ら観光客はバスに乗っている以上、サファリパークを回っているようなものだ。常に守られ、快適で、たまにはガイドまでついてくる。現地民と同じ場所にいながら隔てられている。「帰りはチキンバスに乗ろう」と心の中でそう誓った。
コスタリカの国境で、問題が起きた、何でもイエローカードを持っていない人は注射を打たないといけないらしい。しかし、これが何のための注射かわからない。僕は注射が嫌いなので、みんなが素直に注射を打たれていくのを横目に、必死に抵抗し続けた。しかし、打たないと入国させてやらないといわれ、渋々打った。後で調べたところ、ハシカの予防接種だったらしい。ハシカならとっくにかかってるよ。ばかやろお。
コスタリカはさすが、中米の奇跡と呼ばれるだけあって、すごく栄えていた。パソコンショップなんてのもあり、びっくりした。また中米三大美人国家は3Cといわれ、チリ、コロンビア、そしてコスタリカがそれにあたる。すごく期待していたんだけど・・・・。まあ確かに顔立ちはきれいだけれど、少しふくよか過ぎる気がしました、はい。

 

パナマ-国境と水門-

次の日、パナマに入った。パナマの国境越えは少しやっかいであった。何でもコスタリカから麻薬を持ち込む人が多いので、麻薬犬をつかって、厳重な麻薬検査が行われていた。僕の番になったとき、日本のパスポートを見せると、検査官は面倒臭そうに何も検査せず、手で「行け行け」という仕草をした。日本人は、どうやら検査免除らしい。やはりジャパン・パスポートは霊験あらかたである。日本人はまあ観光地で金をばら撒くだけで、悪いことをあんまりしないからであろう。
バス会社のオフィスはパナマシティーのスラムのすぐ近くにあった。スラムの一部が観光地となっており、どんなアホでもそこがスラムとわかるほどガラリと雰囲気が変わっていた。中米一危険な都市と悪名高きコロンは恐ろしかった。
その日は疲れていたので宿をとり、寝て、次の日ぼったくるタクシーをつかまえて、運河に着いた。着いたときに丁度、「韓国現代」と書かれた、パナマックス(パナマ運河を通過できる船の最大のサイズ)ぎりぎりの巨大船が閘門を通るところだった。漫画の世界だった。閘門と閘門が閉じられた隙間に水が注入され、船が次の閘門の水位まで下がっていく。マジンガー(Zの発進風景)である。意外とショボイとか言われ賛否両論の運河だが、僕はすばらしいと思った。

 

チキンバスで戻る

この後の帰り道はチキンバスだったので、想像以上にすごくハードであった。苦行以外のなんでもなかった。
おわり

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